先生、あのね

5.

 岬先生はいつも男の人に囲まれている。
 先生レベルになると、マネージャーやら取り巻きやらは若い女や綺麗な女じゃなくて、前途洋々な若い男か、既に何者かである大人の男で固められてしまっているのだ。
 女に囲まれてるよりはマシだけど、これはこれで不安の種だった。なぜなら、彼らの大半は俺より年上で、見るからに優秀で、そして間違いなく成功した男たちだからだ。俺なんか逆立ちしたって敵うわけない。
 一番連絡が密なのは、編集の人たちだった。先生は色んな出版社に「担当」がいて、そのそれぞれと電話したり、メールしたり、会って打ち合わせしたりしている。俺が特に気に食わないのはQ社の担当編集者。俺と同い年にしか見えない若さで、地毛なんだか染めてるんだか知らないが、チャラついた紅茶色の猫っ毛をふわふわ揺らし、先生とやたら近い距離で話をする。
 次に作家のお仲間たち。カフェやバーで話し込んでるのはまだいいけど、先生の家にも出入りしていて、この人数がバカにならない。中には先生の弟子を自称する人間もいて、呆れるほどの頻度で呆れ果てる量の原稿を持ち込み、図々しくも先生に添削を依頼している。
 なんで俺がこんなことを知っているかと言うと、それはもちろんこの目で見たから。

 講演会の後のランチから2ヶ月後、先生はお店にやってきて、これまでより少し余計に酔っ払って長居した。
 俺、嬉しかったけど、同時に少しスネてもいた。そんな権利ないのは、分かってるけど。でも先生、”来月行く”って言ってたのに。俺は”先月”、ずっと待っていたのに。
「さなちゃん、」
 先生は酒に潤んだ瞳で俺を流し見る。その日は先生が最後の客で、彼はカウンターの真ん中に陣取っていた。いかにも作家じみた細い指で酒の入ったグラスを弄びながら、女将さんと楽しそうに話していたのが、急に俺の存在に気づいたのか、不意に俺の名を呼んだ。
「なんですか?」
 嬉しいのに、ちょっとよそよそしい感じで返事してしまって、俺は勝手に赤くなった。
 先生は俺の声音にも顔色にも、何も気づいてないのか、何とも思ってないのか、機嫌の良さそうな顔で手を振ってる。おいでおいでという様に、大きな手のひらをユラユラと。
 俺はカウンターの中から出て行って、先生のそばへ立った。先生は隣の椅子を引いて、「座りなさい」と言った。
 俺は困って女将さんの方を見た。女将さんは無言で、綺麗な眉毛をちょっとだけ上げて面白がるような顔をした。
 俺はモジモジしながら椅子に腰掛けた。
「早苗くん、君さあ」
 酔ってるせいか、いつもよりゆっくりした口調で先生は言った。
「はい……」
 俺は先生の手を見ながら答えた。カサついた指に、金色の結婚指輪が光っている。何年つけてるんだろう。くすんで、鈍い光。
「文学とか出版業界に興味あるの?」
 先生の声が小さかったのと、予想もしない単語が出たことで、俺は反応が遅れた。何回か瞬きする時間を経て、ようやく何を聞かれたのか理解した。
「文学……とかは……あまり……」
「じゃ、出版?」
 だんだん分かってきた。講演会に行った理由を聞かれているのかもしれない、と。俺は先生目当てで行ったとバレるのが怖くて、嘘をついた。
「あ、はい……」
「そう……」
 先生は無表情のまま何かを考えている様だった。
 嘘なの、バレてしまうだろうか。
「あのね……ねえここのバイト忙しいの?」
 先生は急に女将さんの方を向いて言った。女将さんはグラスを拭きながら「忙しくなんかないわよ。ご存じでしょ」とキビキビ答えた。
「ああそう……じゃあね、早苗くんさ、」
 先生はまた俺の方を見た。
「俺の知り合いの編集者がね、独立したんだけどさ。そこでもバイトしない? 編集のアシスタントなんだけど」
「バイト……編集……?」
 俺は馬鹿みたいに繰り返すことしか出来なかった。
「そう。誰でも出来る内容なんだけど、何を選り好みしてるんだか、年中知り合いに聞いて回ってるのよ。これがうるさいのなんのって。君、真面目そうだからさ。どう?」
「あ……やります」
 反射的にそう答えていた。先生の連絡先を聞くより、先生の知り合いのアシスタントになった方が早そうだと思ってしまった。20年も自分自身と付き合っていればわかる。俺が先生の連絡先を聞くには、軽く100年はかかりそう。
「あら、ほんと? やってくれる?」
「はい、やりたいです」
 女将さんが変な顔しているのが見なくてもわかった。俺が経済学部で、文学にも出版にも何の縁もないことを知っているはずだから。でも先生が嬉しそうに笑ってくれてるから、俺は先生の笑顔だけに集中した。
「じゃ、悪いんだけどさ、ここへ電話してやってくれる?」
 先生は胸ポケットから革の長財布を取り出すと、中から一枚の名刺を出してテーブルの上に置いた。有名な出版社名の下に、個人の名前と電話番号、メールアドレスが書いてある。
「それ、彼の退職前のなんだけど、裏に今の番号があるから」
 手にとって裏返してみると、鉛筆の走り書きで携帯電話の番号が書いてあった。
「先生の字ですか?」
 思わず聞いてしまった。
「え? ……ああ、私のだね」
 先生が俺の手元に頭を寄せる。シェービングフォームかワックスの、清潔ないい匂いがする。心臓が唸りを上げて飛び跳ねた。
「先生、そんな難しそうなお仕事、さなちゃんで務まるかしら?」
 女将さんがお茶を淹れながら訊く。
「ちゃんとした子なら誰でもいいんですよ。レイコさんのお墨付きなら問題なし」
「お墨付きだなんて、困るわ。あたしには何の責任もありませんからね」
 先生と女将さんが話すのを他人事の様に聞きながら、俺は鉛筆の数字をジッと見下ろしていた。


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