先生、あのね

5.

 そういうわけで、俺は桐沢さんのアシスタントとして時々……いや、結構な頻度で働くことになった。この仕事は飲食店のバイトみたいにシフトが決まってるわけじゃなく、桐沢さんから直接メールや電話で指示された雑用を、期限までに仕上げておくという感じ。ただ、その指示が思ったよりたくさん来るから想像以上に忙しい。でも想像以上のラッキーがあった。岬先生に会う機会が激増したのだ。
「岬先生にアポ取っといて。来週のどこでも、1時間でいいから。断られても諦めないで」
「岬先生に頼んだ原稿、催促に行ってくれる? 締切もう過ぎてるんだけど、あと2週間待てますって言っていいから」
 こんな調子で、俺は拍子抜けするほど簡単に先生の連絡先を手に入れることに成功した。連絡先どころか、住所まで。住所どころか、家の中まで把握することが出来たんだから、バイト代まで貰っちゃバチが当たるんじゃないかとすら思ってしまう。
 ある日、桐沢さんに同行して、とあるコンサル会社にインタビューに行った帰りのことだった。見本本が事務所に届いてるから、岬先生の家まで直接持って行って欲しいと桐沢さんに頼まれた。
「本当は僕が直接行きたいんだけどさ。他の打ち合わせ外せなくて。郵送は嫌だし、早くお見せしたいから南くんが持っていって」
 本はキレイな紺色の布みたいな素材で、地味だけど高級感があった。桐沢さんが打ち合わせの準備に追われている隣で、茶封筒を二重に重ねた中へそっと滑り込ませる。
「じゃあ、行ってきます」
「よろしく、何か言われたらすぐ電話して。何もなきゃそのまま帰っていいから。また連絡するね」
 桐沢さんは目にも止まらぬ速さでスマホをタップしまくりながら、緩い声で指示をくれる。年齢不詳のマネキンみたいな顔で、元気のないアナウンサーみたいな静かな声。多分、そんなにオジサンじゃないと思う。なのに、岬先生みたいな大御所と懇意に出来てるのは何故だろうと俺は少し気になっていたけど、きっとすごく優秀だからなんだろうな。
 夏なのに妙に涼しい日で、俺は薄ぬるい風にワイシャツを膨らまされながら住宅街を歩いた。まさに、閑静な住宅街ってカンジ。今日は何故か蝉の声も聞こえない。どでかい入道雲の作る真っ黒い影が、コンクリートに気味悪く広がっている。
「ごめんください。桐沢の代理で来た南です」
 ごめんくださいなんて言葉、先生と出会わなければ一生使わなかっただろうな。まだちょっと照れながら、俺はインターフォンを見つめていた。
「南さん、どうぞ」
 ドアを開けてくれたのはお手伝いのおばさんだった。いつもこの人がインターフォンに出て、ドアを開けてくれる。岬先生の奥さんは絵の仕事をしているらしく、昼間は2階で寝ていてあまり下に降りてくることはないみたいだ。何回かこの家に来たけど、俺は一回も顔を見ていない。まあ、あんまり見たくもないけど。
「あの。本の見本が出来たので、先生にお渡ししたいんですが」
「それじゃ、お呼びしてきますので、ここでお待ちくださいね」
 おばさんは冷たい麦茶を出してくれてから、廊下の奥へ消えた。俺は庭が見渡せる広い廊下にあるひとりがけのソファに取り残される。
 ぼんやり庭を眺めていると、廊下を踏む足音が聞こえ、はっと顔を上げる。
 先生だ。黒に近い紺のサマーニットに麻のパンツ。きちんとした服装なのに足だけはハダシで、ピカピカに光る廊下をスタスタと踏みしめてこっちへ来る。
「早苗くん。桐沢は?」
 ダブルショック。さなちゃんて呼んでもらえなかったショックと、明らかに俺より桐沢さんに会いたかったって反応に。
「あ……桐沢さんは、どうしても外せない打ち合わせがあるって……でも、直接渡したいからって、そう言われてました。それで俺が。すみません」
 慌てて立ち上がりながら下手なフォローをする。桐沢さんが先生に嫌われて仕事減ったら、俺も先生と会えなくなっちゃうし。
「チッ……」
 俺は耳を疑った。先生が舌打ち?
「桐沢が泣いて頼むから書いた本なんだぜ?」
 先生は苦い笑顔を浮かべて本を手に取った。表紙をひと撫でした時、その目が一瞬険しくなったので俺はすかさず言った。
「な、何か気になるところがあれば、仰ってください」
 先生は何故かハッとした顔になった後、またいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「いや、問題ないよ」
 そう言って俺の目の前のテーブルの上に本を戻すと、「桐沢くん元気?」と言いながらテーブルの反対側のソファに腰を下ろす。
 雑談できるんだ!
 俺、あっという間にハッピー。弾む声で答える。
「元気ですよ。すごい、忙しそうですけど」
「そう。うまく行ってるのかな」
「多分……俺は、あんまり詳しいことはわかんないすけど……」
 こんなことなら、もっと桐沢さんに色々聞いておくんだった。俺、正直言って先生のことしか興味ないから、言われたことを言われた通りにやることしか考えてなかった……。
「あいつ、他の作家にはどんな態度?」
 お手伝いのおばさんが持ってきた麦茶のグラスを手に取りながら先生は続ける。やけに桐沢さんのことを訊くんだな、と思ったけど、そんなことを気にしてる暇はない。必死で今までの桐沢さんの姿を思い出す。
 うーん。うーん。桐沢さん。あのひと、いっつも、同じカオ……。
「えーと……いつも同じ、です。あの。誰に対しても……」
 なんて冴えない回答。ごめんなさい先生……。あと、桐沢さんも……。
「ふうん……」
 つまんなすぎる俺の回答のせいか、先生もぼんやりした返事しかしてくれない。
「あの。でも、岬先生とのお仕事は、すごく、優先度高そうっていうか……あ、こんな言い方逆にシツレイかもしれないんですけど……あの、特別扱いって言うのか……なんて言うのか……」
 俺って! なんでこんなにアタマ悪そうな話し方しか出来ないんだろう!? 自己嫌悪の嵐に飲み込まれながら、必死でゴチャゴチャと喋っていた。先生はテンパってる俺を麦茶を飲みながら眺めて、ニッコリしてくれる。すごい嬉しいけど、すごい情けない。
「俺のこと特別扱いしてた?」
 先生は笑い混じりの声で訊く。俺はドキドキしながら目を泳がせる。
「あ、は、はい……」
「ふうん」
 先生、今度は嬉しそうな『ふうん』だった。俺の胸は少しざわざわした。桐沢さんに特別扱いされるのが、そんなに嬉しいのかな。それとも、単に編集の人に特別扱いされたら嬉しいってだけ? でも、先生みたいな有名人が、そんなことでいちいち喜ぶかな。


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