先生、あのね
先生と初めて一緒にお食事させてもらった時。デザートがあと一口で終わるというタイミングで、俺は勇気を振り絞った。
「あの、先生、」
「……君ねえ」
「えっ?」
本題に入る前なのに、先生が急に不機嫌な顔になって俺の心臓はブチ上がった。
「君、さなちゃん? 早苗くんね、」
さなちゃん。
先生にそう呼ばれると、俺の脳みそは、このデザートの中に入ってる正体不明のクリームみたいに、ドロドロにとろける。
どうして怒ってるんだろうというドキドキと、名前を呼ばれたドキドキで俺はパニクった。
「あ、はい早苗で、す。さ、さなちゃんでも、いいです……」
「ああそう? じゃあね、さなちゃん、あなたね」
「は、はい」
「私はね、君の先生になった覚えはないな。先生と呼ぶのはやめてもらいたいね」
「あ、え……あ、ご、ご、ごめんなさい」
怒った先生の顔、吐き気がするほどかっこよかったけど、本当に吐きそうになる程怖かった。
どうしよう、嫌われた。
情けないけど、俺はマジで、冗談抜きで、泣きかけた。吐くよりマシだけどさ。
「いや。謝らなくてもいいんだけどね。先生ってのはどうも……」
そこまで言って、先生は俺の顔を見た。そして俺が泣きそうになってるのを見てびっくり仰天した顔をしたけど、口調は穏やかにこう続けた。
「いや、決してあの、怒ってる訳じゃなくてだね。君、ちょっと……大丈夫? 真っ青だけど……そう? 無理しないで残しなさい。食べれる? 本当? ……いやね、俺は自分の学生以外から先生って呼ばれんのは好きじゃないんだよなァ」
先生は本当に嫌そうな顔をして、唇の端だけで薄く笑った。その笑顔だけが何故か急に若い男に見え、俺は戸惑った。戸惑ったけど、目が離せなくなって先生の顔を凝視しながら訊いた。
「でも、あの……そしたら、何てお呼びしたら……」
「そうだな。君がさなちゃんだから、そうすると私は章ちゃんってことになるだろうな」
「しょ……」
今度は俺がびっくり仰天する番だった。手が震えてスプーンを取り落とし、お皿に当たって硬い音を立てる。
「あっ、ご、失礼しました……」
「君、意外とリアクションが大きいね」
スプーンを握り直して顔を上げると、先生はもう元の優しそうな笑顔に戻っていた。
「悪かったね、話の途中だったのに。何を言おうとしていたのかな?」
そうだった。俺、勇気出して、先生ともう少しお近づきになれるよう、できれば連絡先を聞くか、それが無理なら、せめて次はいつお店に来てくれるか聞きたいと思っていたのだ。
「あ……はい、あの、せん……あ、しょ、しょ……」
「章ちゃんね」
本気なんだ。俺は多分真っ赤になってたと思う。
「章、ちゃ、ん……は、」
「はいはい」
「あの、また、あの、店。お店に……」
「お店? ああ、レイコさんの」
「はい。また来られますか? あ、女将……レイコさんが……レイコさんが、気にしてたので……」
なんかテンパって、女将さんのせいにしてしまった。こういうの一番カッコ悪いよな……。先生も、困ったような笑顔で「レイコさんが? そう……?」と唇を曲げていた。
「は、い……あの、俺も、もちろん……来て欲しいです」
「なんで?」
いつも穏やかで優しげな先生が、突然ひどくぶっきらぼうにそう言ったので俺はまたスプーンを取り落としかけた。
「なんで来て欲しいの?」
先生はまたあの妙に若く見える笑い方で俺を見た。俺は、自分がさっきあんなに戸惑って、あんなに目が離せなくなったのは、この顔がとてつもなく好きだからだということに気づいた。喉がつかえて、声も掠れ、俺はますます挙動不審になった。
「なんで……って……その……」
「勉強したいわけじゃないんだろ?」
先生は水の入ったグラスを持ち上げ、一口すすった。それから一度、軽く咳払いをしてからグラスを置いた。
「ごめんなさいね、イヤなこと言って。実は二日酔いなもんだから」
「い、い……いえ……俺……」
「お店ね。行くけど来月になるかな。お姉さん、」
そう言って先生は店員を呼ぶと、俺と同じデザートを頼み、ものすごくまずそうな顔をしながら時間をかけて完食した。
俺は先生が追加で頼んでくれたコーヒーをちびちび飲みながら、チラチラと先生を盗み見ていたけど、もうあの顔は見れなかった。
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