君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

31. 三怜

 リオンと一緒に住むようになってから2年が経った頃、俺はダイニングテーブルの上に一冊の医学雑誌を見つけることになる。寒い朝だった。リオンは最近睡眠が不安定で、今日も変な時間に起きてしまい、眠れないからってジョギングしに出て行ったみたいだった。俺は明るくなってから目が覚めて、シャワーを浴びて、コーヒーを飲みながら椅子に座ろうとしたらそれを見つけた。不吉なほどに真っ赤な付箋が目に止まった。取り憑かれたようにすんなりとそのページを広げ、そこに書いてある文字を読んだ瞬間から俺の人生は変わってしまった。
 ジョギングから帰ってきたリオンは雑誌を見下ろしながら固まっていた俺を見て、
「やっぱ知らなかったか」
 と笑った。どうして笑えるのか、理解不能だった。俺は本当の意味での「怒り」という感情をこれまで知らなかったと痛感するほど、強い感情を抱いて彼に詰め寄った。
「待て待て待て、まだ生きてるよ」
 彼は普通の顔をしていた。他人事みたいに。そうだよね、他人事なんだ。この本に書いてあることが本当なら、残されるのは俺なんだから。そんなの許せない。絶対に絶対に許せない。
「検査とか、ちゃんとしてるの?」
 してなかったら殺してやると思いながら俺は聞いた。
「何の検査だよ」
 リオンは冷蔵庫を開けてソーダを取り出しながら答えた。俺ははらわたが煮え繰り返りそうになりながら端末を手に取り、クリニックをサーチする。
「……何してんの」
「ちゃんと検査して。何か異常があれば、早く対処できるようにしておいた方がいいでしょ」
「はっ、生まれた瞬間から異常だっつの」
 俺は端末を床に投げ落とした。リオンはビクッとしてソーダのボトルを床に落とした。彼は大きな音が苦手だった。いつもだったらキレられてるところだけど、今回は何も言わずに黙ってる。当然だよね、被害者は俺の方なんだから。
「ふざけないで。俺が死ぬまで一緒に居てもらわないと困るから」
「それは流石に無理」
 リオンはボトルを拾いながら笑った。俺は眩暈に耐えきれず床にしゃがみ込んだ。視界が狭くなり、動悸がして息が苦しくなる。
 彼は静かに近づいてきて、俺の頭に手を置いた。
「何、本当に知らなかったの?」
「知らなかった」
「ニュースとか見ない人?」
「見てるけど、そんなニュースやってない」
「あ〜、お前がCSの時か。話題になってたの」
 鼓動が激しくなる。あんなことしなければ。ちゃんと時間通りに人生を送ってれば、もっと早く出会えてたかも。もっと長く一緒にいられたかも。どうしてこんなことになった? 答え。俺が馬鹿だったから。くだらない嫌がらせなんかに負けて、人生をスキップしようとした報い。
「なあ、おい。そんなすぐくたばんねえよ。俺30過ぎだぜ? 怒んないで誉めてよ。がんばってる方でしょ」
「いやです、いやだ。嘘だよね? その本、ちゃんとした本なの? どこの出版? いつの? 出鱈目でしょ? 俺ムリ、信じ、無理、こんなの、そんなの……」
「本当だよ。でもそれ昔の本だから。今は雄でも大人になるまで割と生きてるって。俺もそうだし」
「おとなになるまで?」
 喉の奥が震え、ゆうべ食べたフルーツサンドの残骸が床に飛び出した。
 リオンは「おいおい」とかなんとか言いながら近づいてきて、俺の側にしゃがみ込んだ。
「……悪いことしたな。やっぱ別れときゃよかったね」
 俺は声を出すことが出来なくて、彼の手を強く握った。握り潰しそうなくらいに。彼は慌てて空いている手で俺の髪をかき回した。
「あ〜ごめん、ごめんごめんごめん悪い。今の無し。俺が悪いね」
 リオンは自分の服の袖を引っ張って伸ばし、俺の涙と涎を拭いてくれた。
「なあ、そんなに泣くなよ。お前がもうちょい老けるまでは生きてると思うよ」
 もう吐くものがないのに、さらに胃液が込み上げた。
「なあおいって。聞いてる? その頃には俺のこと嫌になってるかもよ」
「そんなわけないでしょ……」
 俺はえずきながら彼をなじった。
「なんで……なんでもっと早く教えてくれなかったの? ひどいよ。なんでこんなひどいことできるの? 信じられない。人のことなんだと思ってるんだよ」
「いや……だからそれ置いといたじゃん。知らねえのかなーって思ったから」
「なんで今なの!? 遅いよ! なんで? 本当に理解できない」
「いや、だから……俺も元気だったしさ。あんま考えたくなかったし。暗くなるだろ。でも最近なんか……老いてるじゃん俺。だから言った方がいいかなって」
「老いてって……別に何も変わってないよ」
 嘘。変わってる。リオンの髪はカラスみたいに真っ黒だったのに、今は明るいところで見ると茶色く透けるようになっていた。あんなにモコモコとぶっとかった尻尾も、かなり細くしなやかになってしまった。毎日見てるとあまりわからないけど、写真や動画で比べるとはっきりわかる。
「変わってんの。ジジイになっちゃったよ」
「なってない」
「うっせえな。ジジイはシャワー浴びるわ」
 これだもん。俺がこんなになってるのに、ほんとにマイペースなんだから。リオンはもう一度俺の頭を撫でた。
「ごめんな。今まで楽しかったから言いたくなかった。悪かったよ」
 俺は返事を出来なかった。顔も上げられなかった。バスルームへ向かうリオンの軽い足音。「タオルがねえ!」と叫んで戻ってきて、2階へ取りに走る足音。降りる音。ドアの開け閉めの音。シャワーの音。ドライヤーの音が止まるまで、俺はダイニングの床にへばりついていた。戻ってきたリオンがソーダを飲みながら俺の前に立ち、
「俺、死ぬまでも、死んだ後のことも、お前しか頼る人いないから。頼むね、しっかりしてね」
 と言われてやっと、顔を上げられた。俺はボロボロなのに、リオンはいつも通りのしれっとした可愛い顔をしていた。俺の乾き始めた吐瀉物に目をやって「汚ねえな、早く片付けろよ」と顔をしかめたあと、よろよろと立ち上がりかけた俺の頬に急にキスしてきた。そして
「ゲロくさくても愛してるよ」
 と言った。


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