君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

32. 三怜

「お前ちゃんと貯金してる? 現金持ってる?」
 季節は本格的な冬を迎えていた。リオンはいなくなる準備を着々と進め始めた。仕事の問題から手をつけ始めて、今まで以上にいろんな人と電話したりメールしたりするようになっていた。そうしてある時、突然ランチの途中で俺にそう言ったのだった。
「貯金……少しだけ。そんなにはないです、なんで?」
「俺の財産さ〜、国になんか取られたくねえし、死んだら不動産とか権利とか全部、お前にあげたいんだけど……贈与税払えねえよな」
 中華のテイクアウトの、ワンタンスープのワンタンがつるつるつるつるすべって、俺はワリバシを折りそうになりながら黙っていた。
「つーかお前の金がそうやって取られんのもやだしさ〜。結婚する?」
 リオンが小籠包を醤油に浸しながら言った。この頃彼は、前にも増して調味料を多く使うようになっていた。何を食べても味が薄いんだそうだ。俺はそのことに神経質になっていて、醤油皿を睨んでいた。それから今の発言について、記憶を巻き戻すようにして考え込んだ。
「……え? 何て……?」
 結局、聞き間違いかもしれないと思って聞き返すことになった。
「ケッコン! 真面目な話してんだから聞いとけよ」
 リオンは怒った顔で不機嫌な声を出した後、小籠包を口いっぱいに頬張ってもぐもぐしながら俺を睨んだ。俺はそれをじっと見ながら、まだ頭が混乱していたので何も言えずにいた。
「おい、聞いてんの? 結婚! しない? やだ? 別に、死んだら無効になるから、お前何もしなくて大丈夫だよ」
「け、けっこん……」
「そう、結婚。知らない? 結婚。……え? いくらお前でもそれくらい知ってるよね……?」
「けっ……し……しっ……て、けっ……ゴホッ」
『それくらい知ってます』と『結婚してくれるの?』が頭と口の中でごちゃごちゃになって、吃って、ワンタンが詰まって、俺は激しく咳き込みながら腕で口を抑えた。リオンは怪訝な顔をしていた。こんな大事な話をこんな風に持ち出すなんて、絶対おかしいのは向こうなのに、なんで平然と俺がおかしいみたいな顔が出来るんだろう。あと、いくらお前でもって、酷い……。
「三怜? 大丈夫かよ。お前箸使うの下手なのになんでそんなの頼むの?」
 リオンは心配そうに眉を下げながらティッシュを持ってきてくれた。俺は口の周りを拭いながら震える声で聞いた。
「結婚してくれるの?」
「え? うん。お前、無理すんなよ。それもう俺が食べてやるから俺の小籠包食ったら?」
「嘘……ほんとに? ほんとに俺と結婚してくれるの?」
「は? 何? さっきからそう言ってんじゃん。結婚したら色々カンタンになんだよ、節税できるし。まあ、お前が戸籍に跡つくのヤじゃなければだけど」
「したい。結婚。したい」
「したい? そう? する?」
「する」
 もっとちゃんとしたプロポーズが良かったとか、俺がプロポーズすれば良かったとか、したかったとか、なんでしなかったんだろうとか。
 色んなことが頭をよぎって、ぼうっとしながら俺の口だけが勝手に動いていた。おまけに涙も垂れ流れていたらしく、リオンは再びティッシュを取り出して俺の顔を拭いてくれた。俺は大人しくされるがままになりながら聞いた。
「いつする? 今日できる?」
「は? 今日? 結婚?」
「うん。早くしたい」
「今日は無理じゃねーの。”必要書類”ってやつが間に合わねえだろ」
「早く用意しよう?」
 俺はリオンの手を遮って立ち上がった。リオンは苦笑いしながら俺を見上げた。
「そんな急がなくてもいきなりぶっ倒れたりしねえよ」
「好きな人と結婚できるなんて思ってなかった」
 ぼんやりしながら椅子に座り直したら、なんだか変なカオをしたリオンと目が合った。綺麗な形の眉を少ししかめて、薄いのに何故か甘い雰囲気を持った唇の端を少し噛み、なんだか困ったような目で俺を見てる。
「な、何……? どうしたの?」
「いや……なんか……節税とか言ってごめん、とか、思って……」
 珍しくモゴモゴと言い淀みながら、リオンは残った小籠包に目を落とした。そんな風に謝られる方が嫌だけど、この人はそういうの、わかんないんだろうな。2年も一緒に暮らしてると、もう慣れたし、こういうとこもカワイイなと思えるけど。
 しょんぼりしてるリオンが可愛くて、珍しくて、黙ってじっと見てたら、彼は居心地悪そうに顔を上げて言った。
「あれやろうか? プロポーズみたいなの」
「え……?」
「ケッコンシテクダサイってやつ」
 自分から提案しておいて、心底嫌そうな顔をする彼が可愛く見える俺は、やっぱり幸せなのかもしれなかった。近い将来不幸のどん底に突き落とされるとしても。それでも今この瞬間は、幸せをしっかり自覚できる。
「プロポーズ、してくれるの?」
「して欲しい? 俺がすんの? お前でもいいんだけど」
 指で頬をかきながらあらぬ方向を見る彼に、俺は思わず笑い声を出した。
「何言ってるの? 結婚したいって言い出したのリオンだよね。だったらそっちから言うのが筋じゃない?」
「は? てめえ、調子乗んなよ」
 リオンは唇を歪めて俺を睨み、バシンとワリバシをテーブルに叩きつけると、ドカッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、俺のすぐ側まで歩み寄り、俺の顔……というか顎……と言うか喉を、長い指をした大きな手で掴み、怒った顔で「俺と……」と言い出したところで黙ってしまった。
 俺は狭い気道から無理に息を吐きながら訊いた。「俺と、何?」
 はあ、とリオンはため息をついてから、今度は真顔になって俺を見下ろした。
「お前、俺のこと好きなの?」
 ?????????
 俺の頭の中はハテナマークでいっぱいになった。
 何言ってんだろうこの人? 今更なに? 2年一緒に暮らしても、わけわかんないとこあるよな……。
 まあ、リオンって、わけわかんないから。と気を取り直し、俺も真顔で目を見て答えた。
「好きだよ」
 リオンは神妙な顔になってしまった。何を考えてるんだろう。思えばいつも、俺はそう思いながら彼を見てきた気がする。この人が、何を考えてるのか、どんなことを思いながら生きてるのか。俺のことはどう見えてるのか。俺といて、少しでもいい気分で居てくれてるのか。
 今も、何考えてるのか、全然わからない。神妙な面持ちのまま、彼はゆっくり俺の喉から手を離した。そしてその手を俺の頭の上に置いたから、俺の目線は自然と下がり、彼の腕が影になって彼の表情は見えなくなった。彼の考えてることはもちろん、行動も全然読めない人だから、俺は不安になってドキドキしながら黙っていた。結婚、やめるとか言い出すんじゃないかと心配になった頃、彼が突然言った。
「菅原三怜くん、」
「はい」
 学生時代の卒業式みたいな呼ばれ方をして、反射的に「はい」とか言ってしまった。頭を上げて彼の顔を見たかったけど、長い指で押さえつけられて、それは叶わなかった。リオンの深緑色のニットしか見えない。どこも、汚れてない。珍しく、食べこぼさなかったんだ。俺の箸のことばっかいつも言うけど、自分だって結構、食べるの下手な方なんだよね。
「えーーと。菅原三怜くん……」
「はい……」
「俺、と……」
 リオンがものすごく苦悶しているのが、顔を見なくてもわかった。なんだか可哀想になってきて、「もういいよ」と目の前のニットを引き寄せたくなったけど、話を途中で遮ると不機嫌になるのもわかってたから、黙ってじっと続きを待つ。
 ふう、と溜め息とも深呼吸ともつかない息を吐いた後、彼は静かな声でひと息に言った。
「菅原三怜くん。好きです。結婚してください」
 はい、と言ったつもりが、喉から空気しか出てなかったらしい。俺が黙ったままでいると思ったリオンが、「おい」と不機嫌そうな声を出しながらまた俺の顔を掴んだ。
「げっ。また泣いてる!」
 俺は我慢できなくて、リオンのニットを引っ張り寄せて顔を押し付けた。リオンは「鼻水つけんなよ!」とかなんとか怒りながら俺を引き離そうとしたけど、俺は負けてあげれなかった。黒いスウェットパンツの腰に手を回し、ますます強く縋りついた。
「あ〜〜〜〜もう〜〜〜、なんでお前ってすぐ泣くの? も〜〜嫌、ほんと嫌」
 リオンはだるそうな声を出しながら、俺を引き剥がすのをやめて大人しく立っていてくれた。俺はそのことに感謝した。俺が死にたかった時、CSという手段で引き留めてくれた医者にも感謝したし、俺のことをいじめた奴らにさえ感謝した。色んなことが重なり合った結果、今この瞬間があるのかもしれないから。どこかで何かが違ってたら、それはそれで、俺は他の幸せを得ることが出来ていたかもしれないけど、これがよかった。これじゃなきゃ嫌だった。ここに辿り着けない運命があると想像しただけで恐怖した。こんなに幸せな気持ちになることがあるなんて、知らなかった。
「俺、生きててよかったです」
 俺は鼻水を啜りながら、彼が嫌がりそうなチープな台詞を呟いた。
「大袈裟なんだよお前は」
 リオンは案の定嫌そうな声を出したけど、顔を上げて見てみたら、案外優しい顔して笑ってた。そう、この顔。
 俺しか知らない顔だと思いながら、俺は見上げていた。この人が外で笑う時って、意地悪そうにニヤニヤするか、馬鹿にするみたいに爆笑するくらいだから。
 また馬鹿みたいに涙が溢れてきた。
 リオンはすぐに笑顔を引っ込めてしまった。
「いつまで泣いてんの? いい加減にしな」
 呆れた顔になって、俺の頭をぱしんとはたくと、ニットを脱ぎ捨てて「鼻水ついてない?」とか言いながら首を傾げて毛糸を検分し始める。その顔がまた可愛くて。半袖姿の腕や腰回りがセクシーで。俺はまたリオンに縋りついていく。彼の鬱陶しそうな声。彼の匂い。好きだと言ってくれたこと。この人と結婚するんだってこと。胸が張り裂けそうな幸せに俺は咽び泣く。
 だって。
 結婚だよ? 結婚!
 この猫ちゃんのたった一人の相手はこの俺だって、全世界に証明書付きで自慢できる! 俺は結婚証明書を掲げて通りを練り歩く自分の姿を思い浮かべた。
『皆さん! 僕は世界で一番大好きな人と結婚しました! これがその証拠です! そしてこの! 隣の彼が! 僕の伴侶なのです! 見てください! 可愛いでしょう!』
 ああ、何てことだろう。夢じゃないよね? すごい! すっごい! 嬉しい!
 泣きながら笑ってる俺に、リオンは「お前キモい!」と容赦無く吐き捨て、まとわりつく俺の腕を引っ掻き、顔に伸びる俺の指に噛みつき、俺は色んなところから血が出たけど、全然平気だった。だって、好きな人と結婚するんだから。この事実がある限り、この先何があっても、大丈夫かもしれないと思った。


次へ
戻る