君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

28. リオン

 三怜から連絡が来なくなって、2週間が経過した。
 先週くらいから電話もメールも来てないことには気づいていたが、引っ越しが忙しいんだろうと思っていたのが、
「ねえ、三怜くん大丈夫?」
 なんてダフネでママに聞かれ、「大丈夫ってなにが?」と首を傾げたわけだ。
「なにがって……体調悪いんでしょ? お店ずっと来てないの。あなた達付き合ってるんでしょ? 面倒みてあげてないの?」
(げっ)と思った俺はその場で三怜に電話をかけた。俺が首絞めたせいでやべえことになってたらやべえなと思ったから。
 三怜は電話に出なかった。俺からかけて、あいつが出ないなんて初めてだった。マジでやべえんじゃねえのこれ?
「やばい、電話出ないよ。死んでたらどうしよう?」
 俺がママに助けを求めると、ママは嫌〜な顔して俺を睨んだ。
「笑えない冗談やめて。お見舞い行ってあげなさいよ。一度も行ってないの? 信じられない」
 世話になってる女に信じられないとまで言われたら、流石の俺も見舞いに行かないわけにはいかなかった。ママから果物やら薬やら山ほど渡され、引っ越し先の住所も手に入れた。三怜のやつ、人んちにはあんだけ押し掛けといて、自分の家は知らせねーとは何事だ。

 タクシーから下ろされた場所は、駅からほど近い低層マンションだった。時刻は午前7時。朝まで飲んだ分をつけてもらう代わりに、「いい加減店に来い」とママに代わって言わなくてはならない。
 インターホンを三回押しても反応がないので、もう一度電話をかけた。留守番電話サービスにつながったので、「今家の前にいんだけど」と言いながらもう一度ピンポンしたら、鍵が開く音がした。
 蜂蜜色の髪、青白い頬。同じく白い腕の内側に青い静脈を浮かび上がらせながら、菅原三怜が玄関の扉を開く。朝日を透かしてほとんど白か灰色に見える水色の瞳が俺を捉えると、ポッカリ開いた黒い瞳孔が、怯えた様に揺らいで大きさを変えた。
「あー……おはよ」
 ママから、と見舞いの品が入った紙袋を突き出すと、三怜は無言で受け取った。俺を見て名前も呼ばず、笑顔にもならないところを初めて見た。
「病気してんだって?」
 わけもなく気まずく思え、そう尋ねると、
「家……どうして、」
 と質問で返された。この会話の噛み合わない感じ。早くも懐かしいなあ、おい。
「ママに聞いた。お前さあ、自分だけ人んち知ってんのって、ずるいんじゃないの?」
「……教えたって来てくれないのに、意味ないでしょ」
 俺の知っている菅原三怜史上、かつてないほどの冷たい声でヤツは言った。驚いたが、まあこいつ、俺が自分の思った通りにならないと癇癪起こすからな、その一環だろうと俺は考えていた。
「入っていい?」
 アゴで室内を指すと、三怜はなぜか泣きそうな顔になった。体調が悪いとか、そんな感じじゃなかったな。なんでそんな顔になるのかわからず、俺は帰った方がいいのか、どうしたのか聞くべきか迷っていた。ちらりと見える限り、部屋の中はまだ荷解きが終わらず、段ボールに囲まれている。玄関タイルの上には、三怜のドデカい靴たちが。
「帰った方がいいなら、そうするけど」
 いつまで待っても三怜が何も言わずにいるので、俺はそう言って玄関のドアから手を離した。三怜は何も言わなかったが、ヤツもドアに手をかけたままだったからドアは閉まらなかった。
 エレベーターホールへ歩きかけ、ふと思いついて「心配だから後で電話するね」と言いながら振り返ると三怜は顔に手を当てそこに立ったまま泣いていた。朝の日差しを横顔に受け、発光している様に白い手で頬から顎を覆い、はらはらと大粒の涙を落としながら音もなく泣いている。
「え、」
 俺の驚いた声に三怜も肩を揺らして顔を上げる。びっくり仰天した俺は三怜に駆け寄った。
「お前、泣くほど具合悪いなら言えよ。病院行ったの? 大丈夫かよ」
「ちが、……うっ、うぅ……ちがいます……」
「何が違うの? お前今日ちょっとヘンだもん、タクシー呼んでやるよ。病院近いの? ここ」
 はらはらと涙をこぼし続ける三怜を見上げながら、俺は急いで尻ポケットから端末を出してタクシー会社に電話をかける。三怜が震える手を伸ばしてそれを止めた。
 三怜の指先は涙で濡れていて、生温かった。
「具合悪くないです、もう帰ってください」
「えー? そんなガチ泣きしてんのに、なんだよ。我慢しない方がいいって絶対。どこが痛いの?」
「痛くないです、はや、早っ、く、帰ってッ」
 三怜は左手で泣き顔を押さえ、右手で俺の肩を押して部屋から遠ざけようとする。
「ちょっと、何なのお前? 人が心配してんのに。店もずっと休んでんだろ?」
 こいつ泣いてても力つええ。
「リオンさんに関係ないでしょ! どうせ俺のことなんか何とも思ってない癖に優しくしないで下さいよッ!」
「はあ〜?」
 何だか最近他の誰かにも同じようなことを言われた気がする。俺ってそんなに優しい? どちらかと言うと他人に冷たい方だと思っていたんだが、自己評価が低すぎたらしい。
 三怜は泣きじゃくりながら片手でどんどん押してくる。さすがに癪に障った俺は腹に力を入れて抵抗した。
「この野郎、キャットレイス舐めんなよ」
 腕を掴んで爪を立てると、三怜は悲鳴をあげて手を離した。
「痛い! 卑怯者!」
「おめえの怪力の方がヒキョーなんだよ!」
 痛そうに腕をさすっている三怜の胸を押して、俺は無理やり部屋に入った。三怜はミミズ腫れを撫でながらしくしく泣き続けている。よくもまあ大人の男がこんだけ泣けるもんだ。呆れ果てた俺は思いをそのまま口にした。
「いつまで泣いてんの。どこが痛いのか言いな、ビョーイン電話するから」
「だからどこも痛くないってば……リオンさんお母さんみたい」
 三怜は蚊の鳴くような声で呟きながら、ヘロヘロと廊下に座り込み、しゃくりあげながら体育座りになって膝に顔を埋めてしまった。俺は本当に母親になったような錯覚を覚えながら見下ろした。
「どこも痛くないならなんで泣いてんだよ」
「どこか痛い時しか人って泣かないと思ってるんですか?」
 三怜は顔もあげずに生意気なことを言ってくる。
「じゃあなんで泣いてんのって」
 三怜は返事をせずに肩を震わせている。
 俺は廊下の向こうに見える洗面所に目をやった。前のマンションからだいぶスケールダウンしているこの部屋では、玄関近くから洗面所の奥まで丸見えだ。洗濯機から、薄いピンク色のロングスリーブTシャツがはみ出しているのを見て思わず口が開いた。
「お前、男のくせにピンクの服なんか着てんじゃねーよ」
「……リオンさん、おじさん」
「あ? お前の方が年上だろッ」
 体育座りした三怜の足を蹴っても、ヤツはまだ顔をあげない。俺の短気が顔を出し、手が勝手に三怜の腕を掴んで無理やり引き剥がしにかかる。三怜はもう抵抗しなかった。長い腕が力なく垂れ、涙でぐしょ濡れになった顔があらわになる。三怜が流れ出す鼻水を服の袖で拭おうとするのを見た俺は「きたねえなあ、ティッシュないの?」と辺りを見回す。段ボールしか見当たらないから、すぐ側にあるトイレのドアを開けてトイレットペーパーを一巻き丸ごと取り出した。
「いい加減泣き止めよ。乾いてミイラになっちゃうぞ」
 しゃがみ込んで顔を拭いてやりながら言うと、三怜はシャンプーから逃げ出そうとする犬のように嫌がる素振りを見せた。少し可愛い。
 顔をつかんで無理やり目を合わせると、三怜は絶望としか表現しようのない顔で俺を見た。
 ぎょっとして、手から力が抜けた。
 俺が怯んだのを見て、三怜は視線を逸らし下を向いた。
「……なんかあったの?」
 どこかが痛いとか、具合が悪いとかそういうことじゃないのはもうわかった。こいつのこの目、今何がどうしたという顔じゃない。もしどっか悪いとしても、それがもう治らないことを悟ったような顔だった。
 三怜は健康な人間の肝を冷やすほど魂の抜けた顔で俺を見上げた。
「俺、リオンさんのこと諦めようと思って」
「……は?」
「好きになってもらえないの、わかっちゃったから」
「は……?」
 玄関の外から子供の声が聞こえていた。何やら喋りながらバタバタと足音を立てて駆けていく。そのあとを、親だろうか、大人の声が追いかける。鳥の声。
 俺の家でも、三怜のあのマンションでも聞こえなかった音たちだ。俺は玄関の方に耳を向けながら三怜の顔を見た。
 こんだけボロボロだと、流石に30代って顔してるぜ。
 大人の顔で子供の泣き方をする三怜の歪さから、俺は目が離せなくなった。


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