君に歌っている

4. [断章]三井慶一

 なんであんなこと言ったんだろう? お前も来れば? なんて……。
 香規もびっくりしてた。口を半開きにして、まるでラメが入ってるみたいにキラキラした白い歯がちょっとだけ見えた。ピンクとオレンジの中間みたいなカワイイ色の唇を歪めて、「はァ?」と言った。
「なんで俺が?」
 なんか声がヘンに上擦ってる。俺の目から目を逸らして、玄関に飾ってある爺ちゃんの魚拓に目をやる。
 こういう時、何とも言えない気持ちになる。香規が、どう見ても、喜んでるように見える。俺は空気読めないとかよく言われるし、だから、俺の勘違いだと思うけど。勘違いだと、いいんだけど。
「東京、久しぶりじゃん? 一緒に行こうよ。俺も一人で発表会とか、ちょっとやだしさ〜」
 なんでこんなに必死に誘わなきゃなんないの? 早口で喋りながら頭の中の俺が戸惑ってる。
 香規の真っ黒い瞳が、やたら瞬きを繰り返しながら、魚拓と俺の間を行ったり来たりする。女優みたいなキレイな眉毛が、前髪の向こうでぎゅぎゅっと困ってるのが見える。ほんとに嫌なら、断れよ。バス、間に合わなくなっちゃうよ。
「バイト……」
 あ〜。この子バイト、掛け持ちしてるんだっけ。忙しいんだったな。
「休みだから、別に行ってもいいけど……」
 来れるんかい。
「着替えて追っかけるから、先行ってろ」
 香規はそれだけ言うと、俺に背を向けて素早く家の奥へ消えた。俺は呆然としながら香規の家を出る。手の中のスマホを見ながら歩く。バス、まだ大丈夫。香規、間に合うのかな?
 バス停までの道は狭い下り坂になっていて、道の両脇には雑木林が生い茂ってる。日差しは遮られるけど、鳥や虫の声がうるさくて、むせかえるような夏の空気に下り坂でも息が上がる。
 俺がバス停に着くより遥か前に、香規は恐るべき速さで追いついてきた。スポーツ嫌いなくせに、走るの早いんだよね。
「みー!」
 やけに元気な声で俺の背中に呼びつける。全く息が上がってないし、汗ひとつかいてない。
「早くない? ……ってか、手ぶら!?」
 香規はマジで手ぶらだった。スマホは? あ、ズボンのポケットから見えてる。
「別に持ってくもんとかねえし。財布は持ってきたよ」
 そう言って尻のポケットを叩く。どうも声が明るい。顔は……普通。普通にいつも通り、ウツクシイ顔。なんでまだ独身? なんで彼女もいない? いつも皆に聞かれてるし、ホントそう思うけど、俺は、なるべくそういうこと考えないようにしている……。
「着替えとかは?」
「そんなずっといねーよ。下着くらいならどっかで買えるだろ」
 着の身着のままでユリの発表会来る気かよ〜。俺、一応おしゃれして行かなきゃって思ってるんだけど。
 嫌な気分で香規の服を見ると、黒Tにデニムってだけなのに、シックでキマってるんだな、これが。こいつ、下手したらこれで寝てる時もあるのに。
 バス停に着くと、程なくして見慣れたバスがやってきた。俺たちは仲良く乗り込むと、いちばん後ろの席に陣取る。
 他に乗客が無いのをいいことに、香規はスマホを取り出すと、爺ちゃんに電話をかけ始めた。みーと一緒にちょっと東京行ってくる。爺ちゃんがなんて答えたのか知らないけど、すごい速さで通話は終了した。
 香規はスマホを膝の上に置くと、窓の外を眺めながら
「泊まっていいの?」
 と短く訊いてきた。
 俺が実家を出てから、香規を俺の部屋に泊めたことは何回かあって、俺としては友達なんだから当然のことだと思うんだけど、香規は毎回「泊まっていいの?」と訊いてくる。
「いいよ」
 俺も短く答える。
 香規がこっちを向かないから、
「汚いけど」
 と付け足す。
 香規は「知ってる」と言いながらこっちを見た。軽く、ほんの少しだけ笑ったような顔で。とっても貴重な香規の笑顔だ。滅多に見れないし、正直ものすごくカワイイので、俺、「珍しいもんが見れたな〜」って顔をしてしまうみたいだ。それで香規は照れてるんだか何なんだか知らないけど、すぐ真顔に戻ってしまう。
 あ〜あ。と思いながら、仏頂面の香規なんて珍しくも何とも無いので、俺はスマホに目を落とした。


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