君に歌っている

2.

 間抜けな音を立てるヤカンを黙らせ、番茶を淹れる。急須を持って居間に戻ると、みーが畳の上に横たわってスマホを眺めていた。変な朱色の靴下のかかとに、無数の毛玉が浮いている。異常なまでに深爪になった右手の指先が、割れた液晶をスワイプしている。
「お前んちかよ」
 俺は毒付きながら急須を置いて、あぐらをかいた。
「俺んちみたいなもんじゃん」
 その答えに、どくんと跳ねる心臓が憎い。黙ったまま、湯呑みに茶を注いだ。
「てかじいちゃん遅くない? 帰ってくるんでしょ?」
「帰ってくるよ。でも晩飯、食ってくるかもしれないな」
「叔母さん家? だっけ?」
「違う……」
 全然人の話聞いてねーな、とため息が出た。
 爺ちゃんは趣味の句会の集まりで、昼過ぎから公民館に出かけていた。句会と言っても、数人のご隠居が集まって発表会をしているだけだが、何が楽しいんだか毎月せっせと通っている。そこのお仲間たちと飯を食って酒を飲むのが、専らのメインだと俺は睨んでいる。
「楽しそうじゃん。お前も見習えよ」
 画面を消してもスマホを手から離さず、みーが言う。
「見習えって、何を」
「趣味とか?」
「俳句なんて、作れん」
「そういうことじゃなくてさあ」
 言われなくてもわかっていた。趣味を作って、仲間と集え。誰かに言われた気がするのに、誰に言われたのか思い出せない。ほんとは、言われてないのかも。羨ましいから、もう一人の自分が頭のどこかでブツブツ言ってるだけかもしれない。
「みーは? 野球まだやってんの」
「やりたいけど、時間がね。俺は暇だけど、メンバーがね」
 みーは草野球のチームを組んでいて、俺も一度だけ、試合を見に行ったことがある。
 2年くらい前に、学生時代の先輩の結婚式に招待されて東京へ行ったとき、みーが住んでる部屋に泊まらせてもらった。
「明日すぐ帰るの?」
 と聞かれ、遊んでくれるのかと期待したら、「野球やんない?」と続いたから「やんない」と答えた。でも、一緒にいたかったから、見に行った。
 河川敷に広がる野球場。スポーツドリンクのCMでも撮れそうな、五月晴れ。
 みーの後ろを呑気について行ったら、俺を見つけたユリが母親の手を振り払って子犬の様に走り寄ってきて、俺はついてきたことを後悔した。

 ユリは正しくは百合香という。三井百合香。みーが離婚して、ユリは母親に引き取られることになったが、名字は父親のをそのまま使うことにしたらしい。
 ユリは幼稚園児の頃から毎年俺にバレンタインカードを送って寄越すほどの一途な女だ。母親に似なかったらしい。
「かのくん、東京にきてたの?」
 ミネラルウォーターのペットボトルを握りしめた俺の手に触りながらユリは言った。
「うん」
「いつまでいるの?」
「今日まで」
 俺がユリと話してる間に、みーはユリの母親と話し始めた。俺はまとわりついてくるユリの頭を押さえて言った。「パパと話した方がいいんじゃないの」
「おとーさんとはいつでも話せるもん」
「いつでもじゃないでしょ」
 勘弁しろよと、両親の方を見る。母親が気づき、近寄ってきた。
「ユリ、こっちおいで。和泉くん、久しぶり。ごめんね」
「どうも」
 ユリの母親は、みーが大学受験のころ通っていた学習塾で、講師をやっていた女だった。早坂詩織。当時大学生。俺達より、4つ上。俺は塾に通ったことがないのでこういうことが普通なのかどうかわからないが、二人のことを知った時は犯罪の二文字が脳裏を駆け巡った。
「遊びに来てるの?」
 早坂がピンクの唇をモデルの様に引き上げながら聞いてくる。
「いや、知り合いの結婚式で……」
「高校の先輩の結婚式だったんだよ、昨日」
 みーが補足した。結婚式にはみーも出席してたけど、話してなかったんだな。普段連絡を取り合っていないであろうことが窺え、俺の溜飲は下がった。
 
 みーは5番ファーストで、うまくも下手でもなく、ただ走ったり、球を取ったり投げたりするのが楽しくて仕方ないという感じだった。
 早坂詩織は複雑な表情をしていた。本当は来たくなかったって顔。ユリが見たがったんだろうな。それならみーがユリを迎えに行ってやればよかったんだろうが、みーはそんな気が利くタイプじゃないし、大方、野球のことも電話か何かでユリにだけ話していて、ユリはガキだからカレンダーもよく読めないだろうし、急に「今日パパの試合だよ!」とか騒いで引っ張り出されてきたってとこだろう。みーのこういうところが、離婚を招いたのかもしれない。
 でもまあ、高校生のガキに手を出したのはそっちだろ、自業自得だな。俺はそんな意地悪な気持ちで、彼らの娘の相手を適当にしていた。
「かのくん、オシゴトいそがしいの? もっと東京にいれないの? ゆり、明日じゅぎょうさんかんなんだよ。かのくん、来られないかなぁ」
「ユリ、授業参観って親が行くんだよ」
「親じゃなくてもいいんだよ。おじさんとか、おばあちゃんとか、くるもん」
「ユリはおかーさんがいるじゃん」
 俺は早坂を見る。つまらなそうにぼけっとしていた横顔が、こっちを向いて眉をひそめた。
「和泉くんごめんね。ユリ、かっこいいお兄さんが好きで……恥ずかしいな」
「授業参観いけないんすか?」
「休みもらえなくて。母に行ってもらうの」
「ふーん……」
 一瞬「みーはダメなの?」と聞きそうになったが、聞くのをやめた。離婚したとはいえ、この女にはあんまりみーに会って欲しくないし、別にユリに可哀想とか、思う義理もない。

 その日の試合、みーが勝ったか負けたか思い出せない。あいつ勝っても負けてもヘラヘラしてるし。
 ユリが、パパでもママでもなく「かのくん」と一緒に帰ると言ってグズり、俺がイラつき出したことにみーより早坂の方が先に気付き、彼女は如才なくアプリでタクシーを召喚すると風の様に去っていった。ユリは、借金のカタに売られていく町娘の如く悲惨な泣き声を残した。
「新幹線何時?」
「……なんで?」
 駅までの道すがら、みーに聞かれ、質問に質問で返した。みーはたっぷり遊んで満足げな笑顔を浮かべながら答えた。
「せっかく東京まで来たんだから、もうちょっと遊んでけば?」
「……遊んでって……遊ぶとこなんか知らねーよ」
「え〜、なんか行きたい店とか無いの? 俺は明日早いから付き合えないけどさ、なんか美味いもんでも食ってけば?」
「……別に……」
 新幹線の時間なんか聞かれて、食事か酒でも付き合ってくれるのかと期待してしまった俺は落胆した。みーは上京してから数年経ってるし、雰囲気のいいバーかなんかでも連れてってくれたら俺はその思い出を一生抱えて生きていけるだろうに、そんな機会はなかなか訪れそうにない。
「明日バイトあるから」
 暗い声で答えると、
「お前バイトしてんの? どこで?」
 と興味深そうに聞かれた。まあ、俺が逆の立場でもこう思うだろうな。あの土地でバイトするところがあるのかとか、その年でまだバイトかよ、などなど。
「明日はK川んとこのホテル」
「K川? あんなとこホテルなんかあったっけ?」
「出来たんだよ。ホテルってか……何かの総合施設みたいなもんだけど」
「ふーん。明日はってことは、他にもやってんの?」
「うん。暇だし。時給低いし」
「ふーん」
 みーは興味を失った様に見えた。だがそのあと他のバイトについても質問を投げてきて、俺は答え、そうしてるうちに駅につき別れた。自分のつまらないバイトの話なんかじゃなく、みーの話を聞きたかった俺は不完全燃焼で疲れが倍になった。

 あれから丸2年、みーに会うことも、話すこともなかった。高校を卒業して以来、年単位で会えないことなど慣れていたので平気だったが、いつも通りそれなりに寂しかった。
 だから今日、電話もなく突然家に来られて、驚いたのと嬉しいのとで俺は軽くえずいた。感情が昂りすぎると吐き気を催すものらしい。
 みーは「相変わらず顔白いね」と苦笑いしながら俺を見ていた。


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