君に歌っている
「お見合いするって、マジ?」
「……誰に聞いた」
俺は前髪の隙間から元同級生を睨んだ。
ちゃぶ台を挟んで正面に座った同い年の男は、筋張った長い指を湯呑みのフチで遊ばせている。俺と目が合うと、その眠そうな瞳を困った様に斜め下に逸らし、湯呑みから離した指で鎖骨をポリポリと掻いた。
「誰にって……ウワサ?」
質問の回答にクエスチョンマークをつけて返すのは、こいつの悪いクセだった。頭悪そうに聞こえるから、昔から注意していたが治らない。
「……誰が俺の噂なんかするわけ」
「まあ、SNSとか……」
「俺やってないけど」
「お前以外はやってるから」
ふん、と返事代わりに息を吐いて、酢昆布の箱に手を伸ばす。一つ取って、しゃぶる。
指についた粉までペロペロしていると、落ち着きなさげに貧乏ゆすりをしていた三井慶一が、あぐらの膝を立てながら話を続けた。
「否定しないってことは、ほんとなの?」
「わかんね」
「わかんねってなんだよ。自分のことじゃん」
「……したくないけど、したいかも」
「したいの〜!?」
ゆらゆらしていた膝がちゃぶ台の淵にぶつかり、ごつんと鈍い音を立てる。「いってえ!」
「何してんだよ」
とっさに手を伸ばし、湯呑みが倒れない様に押さえる。
目の前の男が口をつけていた部分を、反射的に目で捉えていた。
この落ち着きのない男とは中学から高校まで、5年間同じ学校に通った仲だった。
俺が生まれ育ち、今もなお生活しているこの町……というか村……いや正直に言おう。この”集落”には、俺の他に子供はいなかった。中学まではバスで一時間、高校は隣の県の私立を受験し、電車とバスで二時間弱かかった。
中学2年の夏、東京から転校してきた三井慶一はヒーローだった。とはいっても、アメコミ系のムキムキ正義漢じゃない。婆ちゃんの部屋にある古い少女漫画に出てくる様な、髪の毛さらさら白い歯キラリ系。
クラスの期待をよそに、三井慶一は、都会とか田舎とか、そういうことを気にするのがバカバカしくなるくらい、どこにでも居る普通の男子中学生だった。最初あんなに騒いでいた女子たちも、あっけなく彼から興味を失ったようだった。でも俺は違った。皆からみー、みー、と猫の様な響きで呼ばれるその名を、自分も呼んでみたいと思いながら、その機会はなかなか訪れなかった。
30を目前にした今でもはっきり覚えている。初めて彼の名を呼んだのは、中学3年の新学期。勇気を出して同じ生き物係に立候補した。中学生になってウサギやらニワトリの世話をしたがる奴はあまり居ない。めでたく俺たちは当選し、その日の放課後、他のクラスの生き物係との打ち合わせに向かう際、初めて二人きりで話す機会に恵まれた。
「いずみくん、いこーぜ」
三井慶一は、声変わり済みの低音をひらがなにしか聞こえない響きで発声しながら、俺の机に手を置いた。脳ミソがとろけそうなその響きに、思わず首を竦めそうになった。
恐る恐る見上げると、優しそうに垂れた大きな瞳が、俺を見てにこにこしていた。
震える脚に力を入れながら立ち上がると、彼が一歩下がって場所を開けながら追撃してきた。
「いずみくんて、おんなのこみたいにキレーだね」
手に持ったノートと筆箱を取り落としそうになったことまで覚えてる。
「……みい君て名前も、可愛いね」
俺はそう答えたはずだ。何回思い出しても、気持ち悪くて笑えない。中学生だから許された会話だろう。今のこいつに可愛いなんて、絶対に言えない。言いたくないし、言ったら舌を出して「げえっ」と言われるだろう。
でもあの時の少年は、天使の様な笑顔で「みーでいーよ」と返してくれた。
「みー」
顔をしかめて膝をさする彼に俺は声をかけた。
「ん?」と顔をあげたその鼻の下に、うっすらと髭が浮かんでいるのを見て、「お前もおっさんになったな」と喧嘩を売る。
「はぁ? いきなりなんだよ……」
声は昔よりさらに低くなり、可愛さのかけらもない。
「髭くらいちゃんと剃れよ」
「休みなんだからいいじゃん、別に」
「それがおっさんだって言ってんだよ」
「別におっさんでいーし」
不貞腐れて口角を下げる様子は、子供の頃のままだ。
「茶ー、まだ飲むか。淹れてくるよ」
言いながら立ち上がると、ちゃぶ台の下から伸びてきた足が、俺のスウェットのスネを叩いてくる。眉間にシワを寄せてみーの顔を見ると、上目遣いに聞かれた。
「お見合い、マジでするの? マジでしたいの?」
噂流したやつ誰だよ。と血管がブチ切れそうになるのを抑えて、答えた。
「考え中」
見合いの話は初めてではなかった。
最初は叔母が持ってきた。どういう伝手だか忘れたし、ついでに相手の顔も名前も忘れた。一切その気がなかったから。叔母が持ってきた資料を手にも取らずに呆然としていたら、爺ちゃんが
「香規はまだ二十代だよ。遊ばせてやりなさいよ」
と突き返してくれた。
2度目は去年の春だった。今度は自分でちゃんと、断った。
「好きな人がいるから」と電話口で答えると、叔母は
「好きな人ってあんた、近くに若い女の子なんていないじゃないの」
と甲高い声で叫んだ。
3度目の話は、実はまだ来ていない。消防の集まりで酔っぱらった時に「見合いもいーかもしれないすね」と口走ったのが、地元の奴らにでも聞かれていたのだろう。酔っていたが、本心と言えなくもなかった。
祖父が倒れたのは去年の夏。ただの貧血だったが、恐れ慄いた俺はバイト代をおろしてゆうちょの封筒につめ、ちゃぶ台の上に叩きつけた。爺ちゃん、人間ドック、よろしく。
結果、脳の血管の一部に小さな血栓が見つかり、今度は俺が倒れかけた。幸い処置の必要はなく経過観察になったが、その夜は眠れなかった。爺ちゃんの年齢が特大のフォントで頭上にのしかかり、夜中に何度も爺ちゃんの寝室を覗き、その息を確かめた。
一人ぼっちになることが怖かったんじゃない。爺ちゃんに何も恩返しできずに別れることが怖かった。俺は、育ててくれてありがとうなんて、絶対に口に出来る気がしなかった。だから代わりに、何か目に見える物をあげたかった。娘の忘形見が幸せになったところを、何がなんでも見せる必要があると思った。そのためには、定職につき、結婚し、子供を持ち、そしてそれは男女少なくとも一人ずつが望ましい。
全てを望むのは難しかった。一番現実的なのは定職だが、この辺りに正社員なんて格好のいい概念は存在しない。爺ちゃんと一緒に都会へ引っ越す、という考えは、都会で過ごした大学生活で消え失せていた。俺は、爺ちゃんがこの土地から離れられないのはわかっていたつもりだが、自分も同じだということをうんざりするほどわからされたのだった。大学の4年間は暗い思い出しかない。
他にできそうなことは結婚だが、これも難題だ。
MacBook Airのブラウザに初めて「婚活」と打ち込んだ数日後、いくつもの婚活系マッチングアプリをインストールしたタブレットを横目に、俺は頭を抱えた。こんな田舎に嫁に来てくれる「出産に耐えうる年齢(ヤフー知恵袋調べ)」の女性はこの地球上に存在しなそうだった。
俺はズキズキ痛む頭を押さえながら、液晶に水分を吸い尽くされた眼球で畳の目を見つめていた。
馬鹿げてる。何もかも。人間をラベリングして、条件に合うものを見繕い、面接をし、契約をし、種の繁栄に努める。その結果を並べて「爺ちゃん、見て見て」なんて、この俺に出来るわけねーだろ馬鹿野郎、と全てのアプリをアンインストールした。
人生に希望や目標を持ち、その一環として人との出会いに臨める人間が心底羨ましかった。
自分はヒトとしてズレている。思春期の頃から心の隅にあった思いが、垂れ幕になってひらひらと目の前に落ちてきた様な気がした。
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