先生、あのね

3.

 私は存外緊張する質だ。特に、人前に出るのはいけない。ちょっとした取材なんかでも、なかなかあがってしまう。だから講演会なんてものは大の苦手だったが、このご時世、作家も宣伝活動しなければ生き残っていけない。
 明日、講演会……嫌だなあ。
 なんてことを考えながら家で飲んでいたらいつの間にか深酒してしまい、妻に起こされた時は酷い頭痛で人生終わった気分だった。
 薬を飲んでじっとしていたら、大分マシになったものの、担当編集の車に乗ったら吐きそうになって参った。窓を開けて外の空気を吸っていたら、「先生、僕の家の犬みたいですね」なんて言われる。なんて失礼な男だ。説教してやりたかったが、口を開いたら嘔吐しかねないので黙ってやられていた。
 体調が悪くとも時間は容赦無く迫り、結局胸焼けを押さえながら壇上に上がる羽目になった。
 具合が悪いせいでいつもより緊張することがなかったのは不幸中の幸いで、なんとか講演をやり切って、時間が余ったので質問を受け付ける。お客の顔を見ると上がってしまうのであまり見ないようにしていたが、質問を受けるとなれば見ないわけにはいかない。顔を上げてありがたい客たちの顔を見回した。うん。なんともはや。華がないね。
 何人かとやりとりしているうちに、スーツの黒やグレーのモノクロで彩られる景色の中に、不意に風が吹き抜けたように空色の点を見つけた。チラッと目を留めると、若い男の子だ。珍しいなと思いながら、最後の質問者を募ると、彼の隣で手が上がる。質問者に並んで、空色の彼の目も私を見た。どこかで見た顔だな、と思いながら質問に答えるうちに、気付いた。レイコさんのお店のバイトくん。さなちゃんとか言ったかな。さなちゃん、早苗くん。なんでこんなところに? 他人の空似かな。
 心の中で首を傾げながら、講演会は終わった。

「先生、とても二日酔いには見えませんでしたよ、お見事です」
 担当編集の中瀬は、冗談なんだか本気なんだかわからない顔で私を迎えた。返事をするのも面倒で、ちらりと睨んで水を飲む。
「この後、ご予定は? 食事でもどうですか」
「食事ねえ。僕は具合が悪いんだよ。言ってなかったかな?」
 荷物をまとめ、控室を出ると、中瀬はぴったり後ろからついてくる。
「じゃ、真っ直ぐお帰りになりますか? 僕はちょっと仕事があるんで、タクシー呼びましょうか」
「うーん。そうね……」
 この辺まで来ることはあまりないから、ちょっとその辺りをぶらつきたい気もしつつ、まだ胸焼けもしつつ。迷っていたら、中瀬が「すいません、ちょっと電話を」と振動するスマホを振って控室に戻っていく。
 ロビーで待つかと廊下を歩き出したら、空色の後ろ姿が廊下の向こうに消えかけるのが目に入り、思わず反射的に「早苗くん?」と声が出た。
「あ、み、岬先生……」
 早苗くんはその長身を隠すように猫背で振り返り、若い男の子特有の少し高い掠れた声で私の名を呼んだ。
「奇遇だね、こんなところで。学校の何かかな?」
「あ、はい。あの……じゃ、なくて……俺……ええと……」
 この子はいつもこんな感じなんだろうか。目が合わないし、なんだかやたらともじもじしている。返事を待って、その顔を見つめ続けていたら、今度はそのツルツルしたほっぺたがどんどん赤く染まっていく。
 これは……と思いながら、一歩近づいて、「さなちゃん? どうしたの」とその顔を覗き込んだ。早苗くんは、耳まで赤くなりながら、困ったように私を見た。子犬のようなアーモンド型の茶色い瞳を、長い睫毛がパタパタと瞬きを繰り返して遮る。
「講演会に、来てくれてたよね? 課題か何か?」
「あ、はい……あの、でも、課題じゃなくて……」
 課題じゃないなら、なんだろう。もしかして、こんなジジイが見たくてわざわざ来たのだろうか。そんなまさか、と思いたいが、前例があった。憂鬱な気持ちを押し殺し、僕もまだまだ捨てたもんじゃないな、なんて無理やり前向きに考えながら、早苗くんの腕を叩く。
「まあ、なんでもいいやね。来てくれてありがとう。よかったらご飯でもどう」
 軽い気持ちで声をかけたが、彼はびっくり仰天したように目を大きく見開いて僕を見下ろした。
「えっ、い、い、いいんですか」
「もちろん。チケット代、生意気にも高かったでしょう。恥ずかしいから、奢るよ」
「そ、そ、そんな……」
 早苗くんがふるふると頭を振ると、少し長めの前髪がさらさらと揺れた。
 この子は僕のことが好きなのかなぁ、と思いながらそれを見ていたら、背後から中瀬の声がした。知り合いと食事に行くからと、タクシーを断って外へ出る。

 早苗くんは、美しく食事をする子だった。
 何が食べたいかと聞くと、「なんでも……」と俯きがちに言うので、初め私は困った。今時の若い男の子が何を食べたいかなんて、全く思いつかない。自分のことをかえりみても、時代も違えば、おそらく家庭環境も違うので参考になどならない(私の家は貧困と言っても良い家庭だった)。
 表通りに出てみると、ちょうど食事時なのか、付近のビルからスーツ姿のサラリーマンやOLたちがフラフラと回遊しているところだった。そうでもなければどれが飲食店でどれが洋服屋かも見分けのつかない私にとっては、天の助けと言える(蕎麦屋か寿司屋ならわかるが、そんな店はありそうにない街だ)。
 何人かの若い女性が扉の前で散々悩んだ挙句、名残惜しそうに去っていった店を、私は指差した。
「あそこは飲食店かな」
 早苗くんは私の指の先を見て、うなづいた。
「あ、そうですね。イタリアンかな」
 声が明るいので、嫌いではないだろうと、そこへ決めた。
 小洒落た名前が羅列されたメニューを眺め、小うるさいことだと腹で呟き、表示された食材だけで私は注文を決めた。君はどうすると尋ねると、「同じものを」と小さい声で返事され、思わず首を傾げた。
「若い子は、違うものを頼んで分けあったりするんじゃないの?」
 付き合っていた若い女の子が、同じものを頼むと目を三角にして怒っていたのを思い出していたら、早苗くんも首を傾げて私を見た。
「そうなんですか? 俺、あんまり友達いないから……」
 白桃の様にみずみずしい顔を床に向け、早苗くんは小さくそう言った。今時の若者という雰囲気だが、確かに少し、シャイな様だ。
 芝生色の平たい麺を乗せた皿が二つ並ぶと、私たちのテーブルは緑の高原のようになった。早苗くんは銀のフォークを美しく繰り、するすると優雅に口へ運ぶ。
 私がチンタラ食べている間に、彼は若者らしく一皿ペロリと平らげて、水など飲みながら所在なげにしているので、慌てて店員を呼んでメニューを寄越してもらった。
「足りないだろう、もっと食べなさい。デザートは? ケーキでも何でも」
 首をブンブン振りかけるのを遮って、さらに言った。
「あのね、年寄りに遠慮してちゃいけませんよ。僕が君くらいの頃にはね、四六時中腹を空かしてたもんだよ」
 早苗くんはもじもじし続けている。私は何を意地になったのやら、勝手に店員を呼び戻してメニューを開いた。
「お姉さん、デザートなんだけど」
「はい」
「どれが好き?」
「えっ?」
「彼ね、決められないんだって。選んで貰えませんか?」
「えっ」
 サラサラの黒髪をポニーテールにした彼女が、困った様に髪の束を揺らすのを見て「しまった」と思った。若者を二人、ジジイが困らせている構図が出来上がってしまった。
 嫌んなるなァおい。困らせてるジジイも、困った顔になるぜ。
「いや。すみませんね、いきなり」
 とりあえず謝罪すると、お姉さんはふふふと笑ってくれた。
「いえ、あの、おすすめだったらこの……」
 と、何やらカラフルな焼き菓子を指差され、「じゃあそれを」と勝手に頼む。
「す、すいません……ありがとうございます」
 早苗くんはグラスを指で擦りながら礼を言った。爪がピンク色にピカピカ光っている。若いな、と思う。万が一にも私の話に興味があるわけがないことは明らかであり、講演に来た意図を探るつもりだったが、その若い光を浴びているうちにだんだんどうでもよくなってきた。
 私は二日酔いの老人であり、それにも関わらず苦手な仕事を一つ終えたところなのだ。あれこれ考えるには疲れ果てた。
 ポニーテールの彼女が運んできた小麦粉の塊に伸びる彼の爪を見ながら、私は数分忘我することに決めた。


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