先生、あのね

2.

 講演会の当日。俺は朝5時に起きて鏡の前を行ったり来たり。
 何着ていこう? バイトのときは、いつもジーパンにTシャツ。どうでもいいけど、ジーパンって言い方をオシャレじゃないとかナントカ言って否定する奴がたまにいるのが、俺は癪に触る。ジーンズのパンツなんだから、ジーパンでいいじゃん……。
 床に脱ぎ散らかしていた、いつも履いてるジーパンを見下ろして、俺は腕を組んだ。せっかく店以外の場所で会えるチャンスなんだから、ちょっとはカッコつけたい。まあ、講演会の客なんて、いちいち見てないだろうけどさ。もしかしたら、だよ? もしかしたら、控室の前でバッタリ、とかさ。あれっ、さなちゃん? もしかして講演会に来てくれたの? なんてさ。無いとは言えないじゃん。
 いやー、それにしても、あのカッコいい顔と声で、「さなちゃん」っていうのは、サイコーだったよなぁ。もう一回また、呼んで欲しいよなぁ。
 俺はニヤニヤしながらクローゼットを開けた。金もセンスもない俺は、服とか全然、持ってない。カッコつけたいっつっても、どうしようもねーな、コレ。ニヤニヤしてる場合じゃねーよ。
 ふと、思った。
 あんな難しそうな本書いてる人の講演会なんて、エラソーなおじさんばっか、来るんじゃないの? ってことは、下手に若くてイケてるカッコなんかしてたら、悪目立ちして、カッコ悪いんじゃねぇ?
 うーーん、と唸りながら少ない選択肢を見比べた結果、大学の入学式で着たスーツのズボンに、色のついたワイシャツを着て行くことにした。ちゃんとしてると言えばちゃんとしてるし、かと言って冠婚葬祭レベルの堅苦しさもない。コンビニにいても、文化ホールにいても、おかしくない無難なカッコ。
 服が決まったら、シャワーを浴びて、髭を剃って、着替えてもう一度鏡を見る。
「いーんじゃない? 俺、脚なげぇじゃん」
 身長デカいから、その分長いだけだけど。スーツだと、デカいの、得かも。大人っぽく見える。
 そう言えば、岬先生は店に来るとき、いつもスーツだな、と気付いた。先生は俺より数センチだけ、低いかな。でも、あの年齢の人にしたら、デカい方だろうな。スーツも、めちゃくちゃ似合ってる。でも岬先生なら、ルーズな格好でも、かっこいいだろうな。半袖短パンでも、かっこいいだろうな。パンツ一丁でも、かっこいいかも。
 頭の中で先生をどんどん脱がせて、勝手に赤くなりながら、俺はチケットを握りしめて部屋を出た。

 会場に着いたのは、開演一時間前だった。慣れない場所に緊張して、喉が渇いていたので何か飲もうとロビーでキョロキョロしていたら、小さい喫茶コーナーみたいなところを見つけた。アイスコーヒーを頼んで、一人掛けのソファに腰掛ける。
 ストローに吸い付きながら、なんとなくロビーを見渡してみる。
 朝早いせいか、あんまり人がいない。時々スーツの男女が横切っていくけど、お客さんっていうより、ここで働いてる人っぽい。
 アイスコーヒーを飲み終わりそうになる頃、少しずつ人が増えてきた。やっぱりスーツ姿のおじさんが多い。でも、若い人もちらほら。若いっつっても、俺よりは上だろう。とりあえず、男ばっか。女は全然いない。
 なんとなく、ほっとした。だってキレーなオネーサンが、
「せんせぇ〜、この後お昼、ご一緒したいわぁ〜」
 とか言って絡みついてたら、俺ショックで気絶しちゃうよ。
 女がいないか血眼でロビーを見回してるうちに、いつの間にか開演時間が近づいていた。
 俺はソワソワしながら会場の入り口へ向かい、お前が講演するわけじゃねーだろって、自分にツッコミ入れたくなるくらい、緊張しながら席についた。

 開演時間ぴったりに、岬先生は壇上に現れた。
 どうしよう、どうしよう! って叫びたくなるくらい、かっこ良かった!
 店で飲んでる時もかっこいーと思ってたけど、真剣な目でマイクを握る表情が、俺の鼓動を加速させた。ここがライブ会場だったら、ぎゃーって叫びながら飛び跳ねるところだよ。でも、ライブ会場じゃないから、俺は拳を握って奥歯を噛み締めた。
 でも、そんな真剣な先生には悪いんだけど、言ってることは1ミリも理解出来なかった。まあ、顔、カッコ良すぎて、話聞く体勢にも入れてなかったけど……多分、聞こうとしてたって無理だった。難しすぎて……。
 最後に質疑応答の時間があったんだけど、周りのおじさんたちが手を挙げて、いろいろ真剣に質問して、先生も真剣に答えてるの見てたら、俺、だんだん恥ずかしくなってきてしまった。それに、申し訳ない気持ちも。
 事前に一冊くらい、本買って読んどくべきだった。読んでもわかんないかもだけど。帰りに、本屋に寄ってみようと決意。
「じゃ、次最後でお願いします」
 先生が言ったら、俺の隣の人が手を挙げた。
 先生がこっちを見る。俺はドキッとしながら先生を見つめた。
 気付かれちゃうかな。気付かれたく、ない。
 完全にミーハーな気持ちで来た俺のこと、先生がどう思うかと思ったら、急に怖くなった。会いたいと思って来たはずなのに。
 なんで、こんなこと、来る前に気付けねぇのかな。俺って、バカだよなぁ……。
 先生が「じゃあ、そこの方」って俺の隣の人に向かって言った後、ちょっと目を動かして俺の目を見た気がした。俺はビクッとして、下を向いた。気付いたかな。気付いてませんように……。
 質問が終わると、講演会も終わりになった。先生が舞台袖にはけるのを見送って、俺も席を立つ。ロビーに出たら、なんかどっと疲れがでた。
 トイレ行ってから帰ろうと思い、近くのトイレを覗いたら、おじさんたちでちょっと混んでた。他のトイレを探そうと思って廊下をうろうろしていたら、目立って格好の良いスーツの後ろ姿が目の端に映った。
 せ、先生だ……!
 俺は2センチぐらい浮いたかもしれない。ビクッとなって、慌てて回れ右をする。
 走って逃げたいのを我慢して、抜き足差し足で廊下を曲がろうとしたら、後ろから「早苗くん?」って……。
 早苗くんだって! 俺のこと、名前、覚えててくれたんだ……。
 感激と気まずさの間に立たされ、恐る恐る振り返ると、岬先生は店にいるときの優しそうな顔で俺を見ていた。


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