先生、あのね

1.

「君ねえ、ちょっと」
 忘れもしない、第一声。岬先生が俺に、「君ねえ」と呼びかけてくれたあの瞬間。
「君」なんて呼び方で呼ばれたの、初めてで。最初は自分のことだとわからなかった。「ちょっと君、お兄さん」と呼ばれて初めて、俺のことだと気付いた。なぜなら、店に「お兄さん」って呼ばれるような人間、俺しかいなかったから。
 岬先生は俺がバイトしている小料理屋の、常連さんだった。その日は俺、バイト始めて5日目で。飲食のバイトは色々やってたから、作業内容はともかく、小料理屋なんて客としても入ったことなくて、その場の空気になんとか慣れたかどうだかってくらいの頃だった。
 そのとき店にはお客が4、5人いたのかな。岬先生の他に、中年の夫婦と、一人で来てるおじさんが数人。おじさんっていうより、おじいさんって言ってもいいのかも。岬先生? 岬先生はおじさんでもおじいさんでもない。おじさまだ。
 そのおじさまは、カウンターに一人で座っていて、ハマチかなんかのお刺身をアテに、日本酒か何かを飲んでいた。俺は「はいっ」と返事して、伝票片手に近寄った。
「あのね、これ同じの。おかわりお願いします」
 おじさまはグラスをちょっとつまみ上げながら俺を見た。
 俺、正直、岬先生が店に入ってきた時から意識してた。めっちゃかっこいいヒト入ってきた〜ってさ。岬先生、年、アラウンドシックスティーだと思うけど。俺って年上好きだから。入ってきたとき、女将さんが「あら、岬先生」って呼んだから、「先生なんだ、かっこいい」って余計思っちゃったりしてた。
 俺ってさぁ、すごい単純みたいだよね。お酒取りにカウンターの中戻った途端、女将さんに「さなちゃん、顔赤いわよ? 熱でもあるの」って心配されたりして。バレてんじゃん、って思ったら、余計顔赤くなって、女将さん本気で怖い顔になっちゃったよ。女将さんは、美人だけど、ツンデレだから素直に感情が顔に出ないみたい。怒った顔で、
「ちょっと、具合悪いなら早く言いなさいよっ」
って、俺のエプロンの紐外そうとした。
「いやっ。あのっ。具合悪くないっす。すいません」
「だって顔が真っ赤じゃないのよっ」
「あっ。あのっ。暑いだけ……」
「暑いっ? どこがよっ?」
 俺と女将さんが揉めてるの見て、カウンターにいたお客さんの一人が面白そうに笑った。
「レイちゃん、怖いよ。せっかく入った若い子なのに、逃げちゃうよ」
「何が怖いのよっ。お客さんに風邪うつされちゃ、たまんないのよ」
「具合っ! 悪くないです!」
 お客さんに気を取られてる間に、女将さんの手をすり抜けて逃げた。女将さんはまだブツブツ言ってたけど、俺は聞こえないフリして、お酒の瓶を持ってカウンターの中から逃げる。
「お、お待たせしました」
 ドキドキしながら岬先生に声かけると、岬先生、ニコニコしながら俺の顔見てくれた。
「今日初めてなの?」
 岬先生の声が、前に呼んだゲイ専用のデリヘルの台詞と重なって、俺は思わず勃起するんじゃないかと冷や汗が滝のように流れた。
「あ、あの。えっと。初めてじゃ、ないです。ええと……おととい? あれっ? 四日、前? 五日前? から、です……」
 めちゃくちゃテンパりながらお酒注いだから、ものすごいこぼすんじゃないかと思ったら意外と一滴もこぼさなかった俺。えらい。よくがんばったで賞。
「へえ、そう。緊張してて赤くなっちゃったんじゃないの? ねえ、レイコさん」
 岬先生は気の毒そうな顔した後、女将さんの方を見た。「優しくしてあげなさいよ」
 優しくしてあげなさいよ、だって! 俺、なんかすげぇ嬉しくなっちゃったんだよね。それ聞いて。そんで、舞い上がりながら岬先生の手を見たら、左手の薬指に、指輪、光ってたよね。
 俺、「うーーん」って頭の中で唸っちゃったけど、でも同時に「好きになっちゃったなーコレ」って、諦めたように呟く俺もいた。

 岬先生は、常連と言っても、そんなにしょっちゅう通ってきてる訳じゃないみたいだった。次に会えたのは、それから三週間後の土曜日だった。
 俺はほとんど毎日バイトに入ってたから、来る日も来る日も「岬先生、来ないかな……」って呪文のように唱えてた。もちろん、頭の中でだけだけど。だから、先生にまた会えたときは、またしても顔が真っ赤になりかけた。また女将さんに怒られたら嫌だから、必死で別のこと考えて、顔を見られないように気をつけた。
 その日は岬先生が一番乗りのお客さんで、女将さんが注文を受けた。俺は下拵えとかしながら、そっと先生の横顔を盗み見た。やっぱり、すっげー、かっこいい。このまま役者になれそうな感じ。ウイスキーのCMとか、出ててもおかしくない感じ。
 俺、いつの間にかめちゃくちゃ凝視してたみたい。岬先生がふいっと俺の方を見た。ガチッと目があって、俺の包丁は動きを止めた。心臓も止まるとこだった。
「……? お兄さん、どこかで会ったかな」
 岬先生は不思議そうな表情で俺を見た。多分、俺がめちゃくちゃ凝視してたせい。でも、俺のこと全然覚えてなかったんだって思ったら、結構ショックだった。まあ、当たり前だけどさ。
「先生、この子先月から手伝ってもらってるの。先月いらしたとき、いたと思うわ。早苗くんって言うの」
 女将さんが、もじもじしてる俺に代わって説明してくれた。
「さなちゃん、挨拶なさい」
「あっ。はい、あの。早苗です。南早苗……よろしくお願いします」
「みなみさなえ……? アイドルみたいな名前だな。本名?」
 岬先生は、なんだかイジワルな顔でニヤニヤしながらそう言った。俺、キュンときて、ズキュン。また勃起しそうになって、カウンターの内側で良かったって、ホッとした。
「あ……本名、です。えっと……」
 岬先生の名前も知りたいなって思って、でも聞いていいのか迷ってたら、先生がイジワルな顔したまま言った。
「僕の本名はねえ、シド・ヴィシャスっていうんだけどね」
「ちょっとやだ、先生。そういうの若い子にバカにされるわよ」
 俺が固まってたら、女将さんが嫌そうな声をあげた。でも、顔がちょっと笑ってる。あ、冗談か。でも、しどびしゃすって、なんだろう? 人の名前なのかな?
「あの、しどびしゃすって、なんですか……?」
 なんか喋りやすい空気になったから聞いてしまったら、女将さんは「ほらね」って顔して首を振り、先生は「参ったな」とまたニヤニヤした。
「さなちゃん、この方はね、こんなこと言ってるけど、偉い作家先生なのよ。岬章さんっておっしゃるのよ。あなた大学生でしょ? 聞いたことあるでしょ」
「あ……すいません、俺、アタマ悪い学校だから……」
「レイコさん、僕の本なんか読んでる様じゃ、大学なんて入れませんよ。君ねえ、僕を知らないってことは東大生でしょ」
「もう、ふざけてばっかりなんだから先生はっ」
 レイコさんがぷりぷりしながらお酒を注ぐ。
 前に会ったときは、もっと静かで生真面目な人っていう印象だったから、こんなに喋りやすい人だってわかって、俺はますます先生への興味が加速してしまった。もっと、どんな人か知りたい。この人の話を聞いてみたい。もっと話がしてみたい。できれば、俺の話も聞いてもらえたりしたら……。
 結局その日は、その後すぐにお客さんがどんどん入ってきちゃって、先生と話すことも、先生と女将さんの会話を聞くことも出来なかった。岬先生は、一時間くらいいて、お酒を2杯だけ呑んで、俺がお会計のお釣りを渡しに行ったら、
「バイトがんばってね、さなちゃん」
 とニッコリしてから店を出て行った。
 俺の脳内、それから閉店までずっと「さなちゃん」って声がエコーして、何回も注文間違えて、最後は女将さんに尻はたかれた。デニムの上からなのに、バッチリ痛かったよね。でも、そんなの全然気にならないくらい、ハッピーだった。
 その夜バイトの帰り道、早速スマホで「ミサキショウ」を検索した。一番上にAmazonのページがヒットして、見てみたら俺が知らなくて当然、なんだか難しい外国の? 文学? 哲学? の本ばっかだった。レビューもほとんどないから、どんな内容かもわかんない。
 Amazonのページを閉じて、他のリンクにも目をやると、『岬章講演会』の文字が飛び込んできた。反射的にタップして、日付を確認すると、なんと4日後だった。何度も西暦を確認する。心臓の音がどんどん大きくなってくる。チケット申し込みのところを見ると、受付中の文字が燦然と光って見えた。俺、信号待ちしてるとこだったけど、青になっても申し込み手続きが終わるまでその場に立ち止まり続けてた。


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