君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

エピローグ2. 三怜

「今日は帰るけど、」
 突然、何事もなかったように元の声で言いながらアマデオは立ち上がった。
「ここに居るのはわかったし、また来るよ。流石にこれ以上ポンポン店変えられないでしょ」
 心底呆れたようなイヤな笑顔を残して、彼は去った。その通りだった。ダフネはいい店だったし、リオンにも『ダフネにしがみつけ』なんて言われてたのに俺はマガへ出戻った。リオンに初めて会った場所を、どうしてももう一度見たかった。リオンと初めて寝た部屋を見たくなった。思いついたらそのことが頭から離れなくなった。二人で住んだ家も、初めて寝た部屋も、どっちも持っていないと我慢できなくなった。
 当たり前のことだけど、別に見たってどうってことなかった。持ってても何もなかった。ただのソファ。ただのベッド。ただの店。ただの部屋。リオンの髪型を真似ても、リオンの服を着ても、何も起こらない。何も変わらない。わかっていたけど、他に出来ることもしたいこともなかった。なんとか立ち上がって生きているためには、思いついたことをするしかない。リオンはわかってくれると思う。お前の気の済むようにやれよって、言ってくれると思う。
 俺の日常は、頭に浮かぶことを行動に移し、何の成果も生まれないことをぼんやりと認識することの繰り返しになった。そんなの昔からだったかもしれない。みんなそうなのかもしれない。リオンと一緒にいた時間が特別だっただけなのかもしれない。
 
 それから何度かアマデオが店まで来て、俺は逃げたり、捕まったり、捕まっても話さずに済んだり、そんなことを少しの間繰り返した。
 そのうちに、アマデオはやっぱり勘がいいと言うのか、それを優しいと言うのかもしれないけど、俺がまだリオンとお墓なんてものを結びつけられない事に気づいたようだった。そして、相変わらず隈の浮いた下瞼を軽く痙攣させながらこう言った。
「持ち家だったよね」
「え?」
 俺は無意識に首を傾げていたらしい。リオンと一緒に住むうちにうつってしまった彼の癖。アマデオは恐ろしく不機嫌な顔になって続けた。
「ルカさんの家。売ったりした? それとも、まだ……」
 まだ住んでるかと聞きたいのだろうか。そんなこと聞いてどうするんだろう。アマデオは黙ってしまったので俺は仕方なく答える。
「ずっと住んでたし、まだ俺が住んでるけど」
「じゃあ、手放さないんだね? これからも」
 アマデオは電子タバコを取り出しながら鼻息も荒く決めつけるように言った。俺もイライラしながら黙って頷く。
 アマデオはタバコを吸って、吐いて、俺を睨みながら言った。
「ならいい。君の居場所がはっきりしてるなら、いつか探偵でも雇って勝手に突き止める」
 アマデオがあの家を知っていることを俺は忘れていた。思い出した途端、頭に血が上った。
「家なんて、絶対来ないで」
「誰が行くか」
 アマデオの声も大きくなった。俺たちはマガの駐車場に立っていた。ピカピカの高級車以外、周りには誰もいないけど、殴り合いの喧嘩になったら車にぶつからないように気をつけないと。
 冷静なんだか何だかわからない思考回路にぶら下がって茶色い瞳を睨んでいると、アマデオはイライラとタバコを弄び始め、そして猛烈に喋り出した。
「俺はあの人の家に行ったことはないし、行こうともしなかった。君が一緒に住んでたとなれば、これはもう絶対に、遠くからだって見たくもない! 君が……君は……家も知らなかったくせに、あの人のことも、何も知らなかったくせに、図々しく付き纏って、その結果がこれだ! 君の勝ちで、俺の負けだろ? 君の図々しさが勝ったんだ。それが全てだ。だから……だから俺は……」
 興奮のあまりか息切れを起こし始めたアマデオは、またタバコを咥えようとした途端に激しく咳き込んで顔を背けた。高そうなジャケットの裾で口を押さえ、肩を震わせていた。俺は呆気に取られて呆然と見ていた。安定した自立と洗練の向こうに、彼の弱さが見えた気がした。
「……もう、来ない」
 足元のコンクリートを睨みながら濁った声で呟いて、アマデオは俺に背を向けた。俺はしばらくそこから動けなかった。
「君の勝ち」だって。そんなこと思ったことなかった。勝ったことなんて、人生で一度でもあっただろうか。どっちにしろ、自分の勝ちだと思ったことなんて、無いと思う。アマデオが自分の負けだと言った気持ちのほうが、よくわかる。
 いつか探偵でも雇って。アマデオのひび割れた声を思い出しながら、俺は店に戻った。シフトは一時間も前に終わっていた。着替えて、家に帰る時間。リオンが買って、俺に残してくれた家に。それとも、初めて会った日に二人で帰ったマンションへ帰ろうか。どっちでもいい。ポケットの中で二つの鍵に触りながら店を出る。いつか探偵でも雇って。
 いつかって、いつだろう。いつになったら、俺はリオンの死と、”普通の”死を、辞書に載っている”死”を、この世に溢れている死を、繋ぎ合わせることができるのだろう。そんな日が来るのだろうか。
 俺をつけ回す探偵に報酬を払い、リオンの墓に手を合わせるアマデオを見て、勝ったと思える時が来るのだろうか。
 とても想像が出来ない。勝ちたいとも思わない。リオンの目を見て、声を聞いて、この人には勝てない、俺の負けなんだと噛み締めていた日々に、ただ戻りたい。

 大通りの横断歩道で、緑の葉っぱの中にしぶとく残ったピンクの桜を見ながら、今日はマンションに帰ろうと決めた。まだ午前中なのに頭に来るほど太陽が眩しく、夏みたいに暑い。周りには誰もいない。車も通る気配がない。でも俺はきちんと信号を守って、日光に焼かれながら黙って立っていた。リオンは信号どころか横断歩道すら守らないことがしょっちゅうだった。
 マンションに着く頃には俺の背中は汗ばんでいた。エレベーターを待ちながら、暑い、と独り言を言った。
 部屋の扉を開けて、中に入って、廊下を突っ切ってリビングまで行くと、一気にカーテンを開けて窓も全開にする。静かすぎる部屋に風の音が入ってくると、少しほっとした。
 洗面所まで戻って手を洗っていると、急に我慢できなくなって水も止めないまま床にしゃがみ込んで泣き出してしまった。洗面台の鏡の裏の棚に、医者に処方してもらった睡眠薬がある。たくさんある。すぐそこに。全部飲めば、すぐ終わる。でも、リオンが作ってくれた『連絡用』ファイルもある。すぐそこにある。俺の端末のクラウドに。単なる連絡事項の羅列の最後に、オマケみたいに書いてあった「がんばれよ」の5文字が。まだ見れていない、動画ファイルや画像ファイルが。死ぬなら、あれを見てからじゃないと。もしも死んだ後、リオンに会えたら、見てないって言ったら、怒ると思う。絶対、怒る。喋ってくれなくなるかもしれない。そんなことを考えると、俺は端末を手に取り、動画ファイルを呼び出し、やっぱりどうしても見れなくて、見たらどれだけ辛くなるか、これ以上辛いというのがどういうことなのかと震え上がり、どんどん大きくなる自分の心臓の音を聞かずに済むよう音楽ファイルを呼び出しファイル名も見ず再生ボタンを押す。端末を床に放り出し、距離を取るように立ち上がる。早くリオンに会いたいと願いながら水を止める。動画でも、死後の世界でも何でもいいのに、今はどっちも無理だった。でもいつか、叶えたい。できれば、がんばったよと胸を張って。あのふわふわの耳が満足そうにぴょこぴょこと動くのが見たい。




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