君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

6. 三怜

 ベンゾジアゼピン系の薬はバルビツール酸系の薬よりも新しくて安全だと聞いた俺は、「じゃあそっちにします」と書いてメールを送信した。
 2日後、マンションのポストに白い封筒が届き、俺はその薬を手に入れた。希望通り、カプセルタイプ。カプセル1シートとタブレットをポケットに突っ込んで、ダフネに向かう。
 ダフネはマガと違って、オーナーママという存在がいて、全てが彼女の采配にかかっている。小さい店だけど、そういう店ってこだわりが強そうだし、俺は採用されるか心配だった。
 面接はあっという間に終わった。控え室みたいなところに通されると、ママと思われるものすごく怖い顔つきの美人と、若くて優しそうな美人が待ち受けていて(実は優しそうな方がママで、怖い方はチーママだった。しかもママは若く見えるだけで全然若くなかった)、怖い方が俺にいくつか質問をした後、優しそうな方に「ママから何かありますか」と聞いた(これでどっちがママなのかわかった)。
 ママは数分間黙り込み、これは落ちたなと思った瞬間、「三怜くんって血液型何型?」と聞いてきた。俺は「Oマイナスです」と答えた。それで面接は終わりだった。ママが「ふうん。私AB型なのよね」と呟いた後、「いつから来れる?」と聞いてきて、俺は翌日からダフネのキャストになった。
 お店の顧客情報を見ると、リオンさんはルカ・マリアーニと言う名前で登録されていた。でも、その下にカッコ書きで、(エヴァ注:アンリ?)と書かれていた。同じ店で違う名前を名乗ったのかもしれない。適当だなぁと笑いそうになった。やっぱり、イタリアかフランス系なんだろうけど、こっちの方が本名っぽい。でも、俺にとってはリオンさんはリオンさん。でも、この店ではその名前は口に出さないように気をつけなくてはならない。
 ダフネで働くようになってから2週間は、何もなく過ぎた。俺は例の掲示板に張り付いて、毎日〈ネコちゃん〉の動向をチェックしていた。

『ネコちゃん最近見なくね? 給料日前かな』
『ル・ロワでバイトしてる友達が先々週ぐらいに見たって言ってた。でもすごい疲れた顔しててすぐ帰ったって』
『いいなー、疲れてるのわかるくらい近くで見てみてえよ』

 こんな書き込みが散見しているのを見てしまうと、心配でたまらなくなる。いつか俺みたいにリオンさんを追っかけて、俺みたいに薬を盛ろうとする奴が現れるんじゃないだろうかって。
 不審がられるのを覚悟で、店の同僚に聞き込みでもしようかと思い始めた頃、リオンさんはふらりとダフネに現れた。
 俺はそのとき、控え室で休憩中だった。俺の他には、ママが向かいの席で手紙を書いていた(手書きで手紙を書く人を、俺は初めて見た)。そこに突然男性スタッフが入ってきて、ママに向かって「ルカさん来ました」と声をかけた。ママは弾かれたように顔を上げ、俺の肩もびくりと震えた。
「やった、久しぶり」
 ママは前世紀のマンガのように指を鳴らすと、万年筆を置いてそそくさと出て行く。俺は部屋に一人になると、無意識にスーツの胸ポケットに触れた。毎日お守りのように持ち歩いていたカプセルが、今日もそこに収まっている。俺は祈りを捧げるように胸の前で拳を握った。
 ドキドキしながら控え室を出る。ママの後ろ姿を探し、その向こうにリオンさんの黒髪を見つける。ふわふわと柔らかそうな猫っ毛から突き出た、ぬいぐるみみたいな耳。胸がきゅうんとなって、思わず後ずさってしまった。
 ママがリオンさんを席に案内し、二人のキャストに挟まれてリオンさんが座るのが見えた。遠くから見ても、リオンさんがげっそりと疲れた顔つきなのがわかる。薬が効き過ぎたらどうしようと心配になった。
 ママが戻ってきて、控え室の入り口で突っ立っている俺を見つける。俺はリオンさんのことを初めて見たという顔をしてそれを待っている。ママが「キャットレイスの男の子。珍しいでしょ」と言う。俺はうなづく。俺が何も言わなくても、ママの方から、「ヘルプに入る?」と聞いてくれる。俺はもう一度うなづくだけでいい。
 久しぶりに近くで見るリオンさんの顔は、どれだけげっそりしていても、俺には光り輝いて見えた。久しぶりに近くで聞く声は、俺の心臓と脳を揺さぶった。こんなに近くで見てしまったら、今度は逆に「薬はこれだけで足りるだろうか」と思ってしまった。絶対、絶対、失敗したくない。もう2度と、会えなくなるのはごめんだった。
 リオンさんは、お腹が空いている様だった。ママが作った料理と、ママが取り寄せた料理を、ばくばくと子供の様に平らげていく。家で、ちゃんと食べていないんだろうか。俺は心配になった。リオンさんって、自炊するタイプには見えない。俺がリオンさんの恋人になれたら、毎日、毎食、作ってあげるのに。俺も料理、好きじゃないけど、リオンさんのためなら、料理本を1000冊でも買って、料理教室にも毎週通う。
 リオンさんがグラスを空にしたタイミングで、俺は計画の第二段階へ進んだ。
 薬はちゃんと効いた。効きすぎても、効かなすぎてもいなかった。リオンさんはあっという間に前後不覚になった。「トイレどこだっけ?」とふにゃふにゃした口調で言うから、俺が連れて行こうとしたら、「こいつは嫌だ」とはっきり言われ、俺は心臓を手で押さえなければならないくらいショックを受けた。結局、ダフネでリオンさんがいつも指名しているらしい、頭の良さそうなスポーツマン、アマデオがリオンさんに肩を貸してトイレへ連れて行った。俺はそれを見送りながら、自分の端末を出して、急いでメールを一通送った。それからママを探して、今夜は早上がりにしてもらえる様にお願いをした。
 アマデオは、俺とは正反対の男だった。俺は頭が悪そうな顔だし、どう見ても文化系。これは実際に他人から口に出して言われた評価だから、信じてくれていいと思う。自分がリオンさんのタイプじゃないのは何となくわかってたけど、こうも目に見える形で証明されるとグサっとくる。
 トイレから戻ったリオンさんは、真っ青な顔でフラフラしていた。アマデオは、「もう帰った方がいい」って言った。その後続けて、「送って行きますよ」と言いかけたところで、俺の指名客が入店してきて、アマデオを指名する声が聞こえた。指名客と言っても、マガにいた時の指名客だ。俺のお願いを一つ、聞いてもらう条件で、移転先であるこの店を教えてあげた。俺の願いは叶った。
 アマデオからリオンさんの腕を受け取り、俺は席に戻った。リオンさんは、もう俺のことを嫌という元気はなさそうだった。ていうかきっと、アマデオと俺がスイッチしたことにも気付いてない。
 ヘルプの子がリオンさんの吐瀉物を片付けている間に、リオンさんの尻ポケットから端末を抜き取り、ロックを解除してマップアプリを起動する。ダフネから北西に30キロくらいのところに、この端末の所有者が一番長く滞在するポイントが見つかった。俺は頭は悪いかもしれないけど、記憶力には自信がある。目に焼き付けて、すぐに端末を元に戻した。
 ヘルプの子に声をかけて、あとは俺がやるからタクシーを呼ぶように言った。女の子はほっとした様に席を立つと、小走りで控え室へ消えていく。リオンさんのゲロなら、俺は素手でも触れる。
 タクシーがやってくると、アマデオが俺の客に断りを入れてまでやってきて、リオンさんをタクシーに押し込むのを手伝ってくれた。「住所わかる? 聞いた?」と声をかけられ、俺は「大丈夫」ってだけ答えた。俺が私服に着替えていることに気づいたアマデオが「帰るの?」とまた質問してきたから、「家近いみたいだから、送っていく」と宣言。そんなに遠いわけでもないから、嘘じゃない。アマデオはちょっとだけ不思議そうな顔をしたけど、黙ってタクシーのドアを閉めてくれた。
 タクシーに乗ると、リオンさんはすぐに寝てしまった。そっと肩を抱いたら、ずるずると俺にもたれかかってきて、ついにはほとんど俺に膝枕される形で熟睡してしまった。子供の様な寝息を立てて、子猫の様に背中を丸めている。ふわふわの耳は、眠っていても定期的にぱたぱたと動くようだ。
 胸が高鳴りすぎて、俺も吐きそうになった。


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