君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

30. 三怜

 泣きすぎて鼻の奥が痛かった。
 急激な緊張と緩和を繰り返したせいか、頭もズキズキいっている。
 まだ自分の家とは全く思えないリビングの入り口で、カーテンのない窓からの朝日を全身に浴びたリオンさんが、光り輝きながら俺を見下ろしていた。
「じゃあ早めに連絡したほうがいいんじゃない?」
「え、」
 連絡って、誰に……?
「いや不動産屋? とか? 賃貸ってどうするんだっけ。大家? っていうんだっけ?」
 ああ、そういう話……
「一緒に住む?」なんて言われたことに対する衝撃からなかなか覚めることができなかったから、いきなりこんな現実的な話を出されてもなかなかうまく頭が回らない(その前にプロポーズされたような気もするんだけど、流石にそれは俺の妄想だと思う)。
 でも、こんな話を出すってことは、本当に、本気で、俺と住んでくれるってこと?
「あ、の……ほんとに、一緒に住んでくれる、んですか」
「うん。そう言ったじゃん。ていうかお前、しょっちゅう来て泊まってんじゃん。あんま変わんないよね」
 リオンさんは「持ち物多いなぁ」なんて言いながら俺の段ボールたちをジロジロ見た。
 リオンさんの家に住ませてくれるなら、この荷物全部捨ててもいい。そう呟いたら、彼は俺の方に近づいてきて、また俺の目の前にしゃがみ込んで言った。
「元気出た?」
 リオンさんの緑の目が真っ直ぐ俺を見ている。
 リオンさんって、俺のこと、そんなに興味ないわけじゃないのかもしれない。どうでもいいとは思ってないのかもしれない。少なくとも、心配してくれてるのは本当なんだろう。
 ほんのり心が浮き上がるような気持ちと、同時にぼんやりとした悲しみのような気持ちが広がっていく。一度は覚悟を決めた結論が覆る虚しさ。
 俺はこのままどんどんどんどん彼のことを好きになって、もう戻れなくなるかもしれないのに。このまま片想いみたいな現実がずっと続くのは耐えられない。
 だけど、リオンさんに会わなかったこの2週間と5日と22時間の間、重たく沈み込んでいた視界が、彼の姿をとらえた瞬間から色を取り戻したのも事実だった。嘘みたいに気分が良くなっていた。胃薬を飲んで胸焼けが消えるみたいに。猛暑の街から部屋に帰って、シャワーを浴びた後みたいに。
「元気、出ました……」
 俺は諦めて宣言した。
 リオンさんは少し嬉しそうな顔になった。
 これ以上好きになりたくないのに、やめてほしかった。そんな可愛い顔で俺を見るのは。何も思う間も無く胸がドキドキしていた。負けたって感じがした。
「じゃあ顔洗って大家に電話しな。店にも電話して謝っとけよ。クビになったら家賃払えなくなっちゃうぞ」
 彼はすくっと立ち上がると、狭い廊下を塞ぐ俺の力の抜けた両足を跨ぎ、玄関の方へ向かう。
「あ、か、帰っちゃうんですか?」
 リオンさんは振り返って俺を見て、呆れたような顔をした。
「帰っちゃうんですかって……お前さっきまで帰れ帰れって言ってたくせに」
 そうだった……
 俺ってほんとにバカみたい。こんなに考えがコロコロ変わるなら、これから一体何を指標に生きていけばいいのだろう。
 ふらふらと立ち上がり、玄関の扉に手をかけるリオンさんのあとを追う。
 ふわふわの猫っ毛、ふわふわの耳。
 優雅な首。
 今日のリオンさんはお日さまみたいなクリーム色のカーディガンを羽織っている。抱きしめて、引き剥がしたくなる。
「い、いっ、いつ……」
「は? なに?」
 リオンさんが振り返る。
 俺の声に反応してくれる。
 それだけでこんなに嬉しいなんて、喜んでいいのか、危機感を抱くべきなのか。
「あ、いつから……一緒に……」
「ウチ? いつから住めるかって?」
「はい……」
「いつでもいいけど……お前の寝る部屋つくんないとダメか。お前あのデカいベッドどうした? 持ってきた?」
 その瞬間、彼と初めて寝た時のことを思い出した。あの馬鹿みたいに大きいベッドで、リオンさんと性行為をした。
「い、いいえ、あれ、は……部屋についてた家具だから……」
「ああそう。じゃあ買わないとな。買ってから来たら?」
 リオンさんはもうドアを開けてしまっている。この部屋は土足で入る作りだから、このままでは靴を履く間もなくあっという間に彼はいなくなってしまう。
 俺は焦ってお日さまのカーディガンにしがみついた。夢みたいに肌触りのいい生地。
 驚きと抗議の声をあげる彼の口を、後ろから手を伸ばして塞ぎ、部屋の中に引き戻す。久しぶりに吸い込むリオンさんの匂い。暖かい感触。手のひらに、彼の息が当たる。
 さっきまで悩んでた色々なことが、全て宇宙の彼方に吹き飛んでいった。
 何もかもどうでもいい。
 俺はこの人から離れることが出来ない。
 好きで、好きで、好きでどうしようもない。
 他のことは何も考えられない。
 口を塞いでない方の手で彼のベルトを外し、ズボンを引き下ろし、ボクサーの中に手を入れた。
「リオンって呼んでいいよね? 一緒に暮らすんだもんね」
 彼の体を廊下の壁に押し付け、顎の下にキスしながら俺は呟いた。
「んんんん」
 彼は首を捻って俺を睨むと、ものすごく迷惑そうな顔でモゴモゴ言っていた。
 怒ってる怒ってる。
 前からこういう顔をしてる時が一番かわいいと思ってた。
 いよいよ頭がぼうっとしてきて、代わりにこの2週間何の反応も起こさなかった下半身が、冗談みたいにおっきくなってる。
「もう帰って寝るんだって!」
 文句を言い続ける彼のペニスを握り、彼の好きなやり方で触りまくり、跪いて口でもご奉仕し、彼が疲れ果てた顔で射精するのを目と鼻の先で観察してから、彼の太ももの間に俺のペニスを入れて俺も射精した。
 その頃には二人とも廊下に這いつくばってめちゃくちゃな体制になっていて、彼は膝が痛いと20秒に1度のペースで訴え続けていたし、俺も廊下の壁にヒジを擦って薄皮がめくれていた。
 間違いなく、人生で最高の瞬間だった。
「ベッドなくていいです、床でいいです。荷物も手続きも順番にやるから、今夜から行っていいですか?」
 駅はすぐそこなのに、端末を操作してタクシーを呼び出してる彼にそう言うと、
「やだ。今ので予定遅れまくり。疲れてるし寝るし仕事するし、お前に構ってる時間ねえ」
 と、ご機嫌ななめで俺の方を見てもくれない。
 俺も今夜から店に出るつもりでいたけど(ママが許してくれれば)、出勤前に押しかけてご飯を作れば、きっと一緒に食べてくれるだろうと確信していた。だから「何が食べたいですか? 夕ご飯」と続けたら、
「来んなって。もうカレー飽きたし」
 と、端末をオフにしながら尻尾を一振りされた。
 それならシチューかな、と俺が考えた瞬間。
「シチューも無し。ピザとチョコ買ってきて、カカオ70パー以下だったら去勢な」
 そんな怖いことを言いながら、ふわふわの耳をぴよぴよさせていた。


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