君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

27. 三怜

 目が覚めると、段ボールに囲まれた自分のベッドの上にいた。
 マガを辞めたから、この部屋も近いうちに引き払わなければならない。引っ越しの準備は少しずつ進めてはいるものの、休みの日はリオンさんの家に入り浸っているせいで、どうにも進捗は思わしくない。そこらじゅう、中途半端に開いた段ボールがレトロアクションゲームの足場の様に点在している。
 端末を見ると、朝の5時だった。窓の外はまだ薄暗い。店からも、リオンさんからも、何の連絡も入っていなかった。まあ俺のシフトは彼に首を絞められる前に終わっていたから、社会的には何の問題もない。でも個人的には大問題って感じ。あの後、リオンさんどうしたんだろう。それに俺、どうやって家に帰ってきたんだろう。
 ふらふらとトイレに入って用を足し、洗面所で顔を洗って歯を磨き、何か飲もうとダイニングに入ったらリビングからキーボードのタイプ音が聞こえて俺は飛び上がった。
「三怜? 起きた?」
 タイプ音が止まり、代わりにリオンさんの声がした。
「リオンさん? い、き、来てたんですか……」
「来てたんですかじゃねえだろ。誰が送ってきたと思ってんの?」
 リオンさんはソファの上にあぐらをかいて、ノートPCで何か書いてる様子だった。俺のこと送ってくれて、そのままここで仕事してたのかな? 自分の家に帰らず、俺が起きるまで待っててくれたんだろうか。
「あ、ありがとうございます……俺、あの、あんまりよく覚えてなくて……」
「おまえ気絶してたもんな。俺もちょっと飲み過ぎっていうか……なんかすげえ怒っちゃって、ごめんね」
 リオンさんはタイピングしながら俺に謝ってくれた。俺は感動して、冷蔵庫を開けることもできず、バカみたいにその場に突っ立ってた。さっき鏡で見たら俺の首には指の形に痕がついてたし、他人が見たら「すげえ怒っちゃって」どころの騒ぎだとは思わないだろうけど、俺はリオンさんが俺のことを見ててくれたらそれが嬉しいし、この痕だってずっと残ってて欲しいくらい。
 しばらくぼんやりと〈俺の部屋にいるリオンさんの図〉を眺めていたら、彼が足を伸ばし爪先で近くの段ボールをつんつんしながら言った。
「お前なに、引っ越すの?」
「あ……はい。マガのマンションなんで……従業員だから安く借りれてたんですけど、辞めちゃったから、ほんとの家賃じゃ払えないので……」
「ふうん。てか何で辞めたの?」
「そ、れは……」
 あなたが店に来てくれないから。と言いたいけど、それじゃあなんでダフネに? なんて話になったらいよいよ通報されそうだから、俺は口をつぐんだ。
 8割の切ない思いと2割の後ろめたさを込めてリオンさんを見つめていたら、彼は居心地悪そうに目を逸らして言った。
「いや……まあ言いたくないならいいけど」
「いえ、ええと……ちょっと……」
 リオンさんは優しいから、こうやって口籠っていれば、しつこく追求したりせず、諦めてくれる。思った通り、彼は俺を横目に見て言った。
「いやもういいよ。ってかいつまでこっち見てんの? そーやって上から下までジロジロ見んのヤダって言ったよね?」
「あ……ごめんなさい」
 慌てて目を逸らし、ミネラルウォーターを出してグラスに注いだ。飲み干してから、リオンさんの分も淹れようとコーヒーの準備をする。
 すぐ近くにリオンさんの気配を感じながらリオンさんを見ないでいることは難しい。彼に出会う前の自分は毎日何を考えていたのか、全く思い出せない。……リオンさんは? 俺と出会う前は、どんなんだったんだろう。何も変わらないかな。きっと毎日仕事して、お金を稼いで、クラブで豪遊して……アマデオとは2年の付き合いって言ってたっけ。仕事でも遊びでも世話になってるって。2年間でどれだけセックスしたんだろう……。
 コーヒーの中に頭まで浸かったみたいに、真っ黒い絶望感が込み上げた。それからリオンさんがPCを閉じる音がした。
「三怜? 俺そろそろ帰るね」
「えっ? あ……お仕事……」
「んー、ってか寝てないから」
「あ……ごめんなさい、俺のせいで……」
「や、落としたの俺だし。どっか痛くなったら病院行けよ、金払うから」
「いえ……大丈夫です」
 もう帰っちゃうんだと思ったら、たまらなく寂しくなった。絶望に加えてこの寂しさ。とても耐えられそうにない。
「あの、コーヒー淹れたので、飲んでいきません?」
 リオンさんは俺の顔を見上げて、不思議そうに首を傾げた。あっけに取られるほどの可愛らしさ。俺が死ぬまで一生この部屋にいて欲しい。
「……もしかして今すでに具合悪い?」
「いえ、そんなことは……もうちょっと一緒に居たいだけです」
「そう? 顔色悪りぃけど」
 リオンさんて……酷いことしたり言ったりするけど、こんな風に俺のこと心配してくれたりすることも結構多いんだよね。それに比べて俺は……睡眠不足の彼を自分のわがままで引き留めたりして……思えばそんなことばかりな気がする。こんなんじゃいつ愛想尽かされても不思議じゃない。アマデオはそんなことしないんだろうな。2年間ずっとリオンさんのいうことを聞いて、わがままなんて言わなかったに違いない。そうじゃなきゃこのネコちゃんと続くはずない。きっとモデルの仕事だって、リオンさんが頼めば二つ返事で引き受けるだろう。俺の持ってないもの、俺に出来ない事、アマデオは全部兼ね備えてる。気づいた瞬間ぞっとして、自分でも顔から血の気が引くのがわかった。
 リオンさんは俺からカップを受け取ると、飲まずにそのままテーブルに置き、俺の下瞼に手を伸ばす。
「マジで貧血っぽいぞ。二日酔いか?」
「モ……モデルの……仕事、」
「あ?」
「モデルの仕事……やります」
「は……?」
 彼は俺の顔に触れたまま再び首を傾げた。
「モデルやります、リオンさんの役に立ちたい」
「どうした、急に」
 リオンさんの手が離れた。
「やりたくないんだろ?」
「やりたいです」
「嘘つくなよ」
 リオンさんは呆れた様に顔をしかめた。
「嘘じゃありません……それとも、もうアマデオに決めちゃいましたか?」
「いや……あいつ忙しいし、無理じゃねーかな。ちゃんと話してないけどさ」
「じゃ、じゃあ俺が……」
「いーって。俺デザイナーじゃねえし、責任ねえから。思いつきで言っただけだし。そんな気にしてくんなくていいよ」
 リオンさんはPCを抱えて立ち上がってしまった。
「し、仕事で……」
 俺も立ち上がり、彼の背中に向かって問いかける。
「仕事で、他に手伝えることってありますか?」
「仕事で? お前の仕事で?」
「あ……ていうか……何でもいいんですけど……どんな形でも……リオンさんの仕事を、俺が力になれること……」
「え〜? ないだろ」
 リオンさんは笑いながら玄関に向かう。靴を履き、俺の顔を見ると、何か思いついた様に眉を上げ口を開けた。
「あ、わかった! お前、アマデオに張り合おうとしてんだろ!」
「え……」
「あはは、そんなに俺のこと好きか」
 リオンさんは楽しそうに笑うと、俺の頭を撫でようと手を伸ばし、届かないことに気づくと俺の頬をぱたぱた叩いた。俺は胸が詰まって何も言えなかった。黙って下を向いていたら、リオンさんも真顔になってしまった。
「なんだよ、どうした? 冗談じゃん。俺の仕事のことなんかお前が考えなくていいよ」
「考えたいんです。俺には冗談になりません」
 俺はリオンさんの手を掴んで言った。玄関の明かり窓から朝焼けの光が差し込む。初めて会った日のことを思い出した。リオンさんは俺が寝てる間に帰ってしまったけど、連絡先を置いていってくれた。それに、必死で追いかけたら追いついた。今回だって、必死に追いかけて、追いついて、追い越してやる。
「アマデオに張り……は、張り合う……つもりはないですけど、だって俺、リオンさんの恋人だし、張り合う必要なんかないでしょ? それとも、リオンさんの中ではあの人と俺って同じなんですか?」
「いや全然違うけど」
「あ、ほ、ほんと? ほんとに?」
「うん」
「ど、ど、どこが? 俺の方が好きですか? 大事ですか? 恋人だから?」 
「どこがって……あいつの方が好みだし、性格もいいし、お前とアイツは違うでしょってこと」
 急に天気が悪くなったのだろうか。朝日で眩しいはずの空間が、突然暗くなる。
 リオンさんが「もう行くね」とか何とか言っていた気がするけど、俺は返事をしなかった。キスしないで別れたのは付き合ってから初めて。でもどうせ彼はそんなこと気にしてないだろう。
 リビングに戻っても、部屋は暗いままだった。窓の外を見ると、本当に雨が降ってきてる。リオンさん、傘なんか持ってないよな。タクシー拾うかな? 変なとこケチだから、濡れたまま歩いて駅まで行くかもな。追いかけて、傘貸してあげようかな。
 俺は玄関の方を見て、傘が入ってるシューズクロークを見て、そのあとリオンさんが消えた扉を見た。
 追いかけても追いかけても、いつまでも追いつけない気がした。


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