君のことよく知らないけど 〜延長戦〜

2.

 リオンさんと、連絡が取れなくなって6日と8時間49分。俺は限界を迎えつつあった。
 メールの返信は無く、電話も出てくれない。もちろん、お店にも来てくれない。
 よく、「仕事に打ち込んでいる間は辛い恋のことを忘れていられる」とか、「部屋の掃除をして気を紛らわす」なんて言う人がいるけど、そんなの嘘っぱちだと思った。少なくとも俺の場合は、仕事のことなんか何も考えられないし、部屋の掃除なんてもってのほかだった。
 リオンさんから丸3日無視されたあたりで、まず店に出るという概念が頭から消え失せ、出勤時間を30分過ぎてから電話が鳴るまで、仕事のことなんて忘れていた。家事にしても同じ様なもので(そもそも清掃サービスを頼んでいるから掃除は元々してなかったけど)、食糧の買い出しや食事の支度、果ては食事そのものの習慣が頭から抜け落ち、あるタイミングで目眩と胃痛に倒れかけて初めて、丸二日食事をしていないことに気がついた。
 胃薬を飲みすぎて漢方臭くなった溜め息を吐きながら、タブレットのディスプレイを眺める。ここ数日間、この端末を触りすぎて、手に持つとそのボディと手のひらが一体化した心地になるほど、その感触が皮膚に馴染んでいる。
 リオンさんは電子メールのアドレスしか教えてくれなかったから、俺のメールが既読になっているかどうかすらわからない。帰ってこないメールを待ちながら、返事のもらえないメッセージたちを眺めていると、頭がどうにかなりそうだった。
 なんで、嫌われちゃったんだろう。もう100回くらい、考えている。やっぱり、電話とか、メールとか、しすぎだったのだろうか。
 メールの内容がよくないのかもと思い、自分の送ったメールの文面を分析しようと見返してもみても、耐えきれずに目が潤んできてしまって結局何もわからない。
 メーラーを閉じると、メッセージアプリに通知が1件きていた。どうせリオンさんじゃないし……と憂鬱な気持ちでタップすると、職場の同僚からだった。
『生きてるー? 話してた店のアドレス貼っとく。あんま客に入れ込まないほうがいいよ。気分転換してね』
 レンは親切な子だ。俺が一昨日、リオンさんのこと何か知らないかと詰め寄った時も、無駄な喧嘩を買わなかっただけでなく、俺に同情してくれた。これまでほとんど喋ったことすらなかったのに、いきなりあんな態度を取った自分と、年下なのに俺より遥かに大人な対応を取った彼の対比を思うと、恥ずかしくて顔が赤くなる。
——この前来てたキャットレイスのお客さん、覚えてる?
——覚えてるよ、リオンさんでしょ?
 気安く呼ぶな。お前のリオンさんじゃない、俺のリオンさんだ。
 他人の口から、それもリオンさんと1秒でもいちゃついてたことのある男の口から聞く「リオンさん」の響きは、破壊力抜群だった。
——連絡先、知ってる? あの後個人的に会ったりした?
——なんでそんなこと聞くの? 知ってたら何?
 レンは本当に単純に「なんで?」と思って訊いただけなのに、頭に血が上っていた俺は彼の胸ぐらを掴んで「いいから答えろ」なんて自分でも聞いたことのない声で脅迫行為に及んだ。
 レンは目を丸くして「君、ほんとにミレイくん?」と呟き、その目に嘘のないことにようやく気づいた俺は手を離した。数センチ浮いていた彼の足が地面についた音で、俺は我に返り、レンはそんな俺に同情してくれた。
 結局レンはリオンさんの個人情報について、俺が知る以上のことは何も知らないらしかったけど、代わりに風俗のお店を教えてくれた。
「キャットレイスのお兄さんいるよ。あのお客さんには、あんまし似てないけど」
 だそうだ。
 風俗のお店には、昔1回だけ行ったことがある。理由はもちろん、性欲を解消するためだったけど、残念ながら目的は果たされなかった。緊張してたからとか、相手が悪かったとか、色々原因は考えられたけど、有力なのは「好きな人じゃないから」だと俺は思っている。だけど、ディスプレイに表示された「キャットレイスのお兄さん」の一文から、俺の目はなかなか剥がれてくれなかった。

         ◇

 リオンさんと連絡が取れなくなって、一週間と5時間17分。俺は限界を超えつつあった。
 ストレスからか今度は過食気味になり、かと言って外で食事する気にも、何か作る気にもなれず、コンビニでスナック菓子やらチョコレートやらを買ってきてそればかり食べ続けていたら、顎に吹き出物が現れ、口の中にも口内炎が常駐している。
 午後4時。俺はリビングの床に座り込んで、片手にビール、片手にタブレットを持ち、両目は画面上のとあるホームページを凝視していた。

『エリス(19)174cm/52kg S・M両方可。スカトロ可。宿泊可。』

 簡素だけど濃すぎる情報が詰め込まれた一文の上には、目元にボカシの入った男の子の写真が一枚。俺より少し色の濃い金髪の中から、にょっきりと金色の猫耳が生えている。ぴったりしたボクサーパンツの後ろからは、同じく黄金色の尻尾がヘビの様に伸びていた。リオンさんの尻尾より、かなり細い。耳の形は、リオンさんによく似ていた。
 かれこれ24時間以上、俺はこのページを開いたり閉じたりすることを繰り返している。この写真とこの文章を、見返し続けている。
 リオンさんに再会できる望みは、今や限りなくゼロに等しい。まだメールは送れるけど、電話はついに着信拒否をされてしまった。何時にかけても、電波が届かない場所にあるか電源が入っていないと言われてしまう。AIの機械的なボイスを3回聞かされたところで、俺の意識よりも先に胃が悲鳴を上げ、直前まで詰め込んでいたチョコレートが食道を逆流してリビングの床に飛び出してきた。幸いなことに、チョコしか食べていなかったから匂いはただひたすらにスイートだった。
 ズキズキと痛む鳩尾を押さえながら、俺はビールの缶を床に置く。
 こんなに辛いのは、希少なキャットレイスという種族に魅了されたからに過ぎないと思いたかった。思いがけず自分の性癖にジャストミートした生き物と、久しぶりのセックスをしたせいで骨抜きになり、そのせいで薬にあてられた様に中毒症状に見舞われているだけなんだと。好みのタイプは彼だけじゃないと自分の体に思い知らせれば、この地獄から抜け出せるかもしれない。その可能性に賭けるしかない。じゃないと、じゃないと……
 俺のことを追いかけ回していた女の子のことを思い出してしまった。あんな幽鬼の様な人間になるのは嫌だ。
 これ以上状況が悪くなることも、もちろん良くなる事もないことだけはわかった。お金ならある。失うものはない。俺は予約のボタンをタップすると、もう一度ビールの缶を持ち上げた。


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