君のことよく知らないけど
目が覚めたら、強い目眩に襲われてもう一度目を閉じた。
暗闇の中、回る視界の中で、何かとんでもないことを忘れているような気がした。
グラグラする感覚が収まってから、ゆっくり体を起こすと、鈍く肛門が痛んだ。その瞬間、フラッシュバックのように脳内を記憶が駆け巡る。
俺は尻の痛みも忘れて飛び上がり、ばしんとシーツの余白を叩いた。まだ、温かい。
パンツ一丁のまま寝室を飛び出す。家中がシーンとしていた。リビングにも、バスルームにも、トイレにも、リオンさんの姿はなかった。玄関に置かれたデジタル時計を見る。8時5分前。早いよ!
慌ててサンダルに足を突っ込み、玄関のドアを開けたところで自分の格好を思い出した。走って寝室に戻ると、視界の隅にやたらトロピカルな青色が映った。前の職場のオーナーが、ハワイ旅行のお土産にくれたアロハシャツ。タンスに引っかかっていたそれを引っ掴むと、俺は鍵もかけずに家を飛び出した。
エレベーターは運よく11階で止まっていた。下ボタンを連打する。飛び乗って、1Fボタンを叩く。アロハシャツを羽織ったところで、エレベーターが停止する。1階じゃなくて、4階だった。ゴミ袋をぶら下げたおじさんが乗りこんできて、俺の姿を見て凍りつく。俺は心を無にして、一つ一つ点いては消える階数のボタンの光を見ていた。
永遠とも思える時を経て、エレベーターは1階へ辿り着いた。アロハシャツにボクサー1枚でエントランスを走り抜けた俺を、守衛さんが害虫でも見るような目で見送る。
マンションの敷地を抜け、駅へ続く通りへ出る。通勤中らしいサラリーマンや、制服姿の学生がぽつりぽつりと歩いている。俺に気付くと、見てはいけないものを見たように、さっと顔を背けたり、あからさまに避けて反対車線へ横断していく。
もう駅に着いてしまったのだろうか、駅までこの格好で行ったら逮捕される?
ドキドキしながら辺りを見回していると、すぐそばのコンビニから、ド派手な蛍光イエローのTシャツにボロボロのジーンズ姿のキャットレイスが出てきた。リオンさんだ!
「リオンさんッ!」
声を張り上げると、かわいい猫耳がびよんと立ち上がり、ふわふわの尻尾がふわりと揺れる。くしゃくしゃの黒髪が風にまかれ、うっとうしそうに前髪をかき上げながら、リオンさんは俺を見た。
「リオンさんっ……」
駆け寄って腕を掴む。何か買い物でもしたのか、その手には白いビニール袋をぶら下げていた。
「お前……捕まるぞ……」
リオンさんは俺の股間を嫌そうに見ながらそう言った。
「リオンさん、黙って帰っちゃうなんて、ひどいです……」
「え……メモ残したんだけど……」
「えっ?」
「気づかんかった? リビングに置いといたけど」
「あ、き、気付き……ってか、見てないです、すみません……」
はあ……とため息を着いて、リオンさんは俺を睨むように見上げる。明るい朝の日差しの中でその瞳孔は縦に細く、灰緑色の虹彩が宝石のようにきらめいていた。
「手ぇ離して? 昼から仕事あるから、もう帰んないと」
「あ、ご、ごめん、なさい……」
メモ、何書いててくれたんだろう。連絡先って、書いてくれたのかな。今、聞いても、いいのかな……。
なんで気づかなかったんだろう、と自分の間抜けぶりにイラついていたら、リオンさんはぶら下げていた袋に手を突っ込んで、水色の細長い袋を取り出すと、「あげる」と俺に手渡してきた。ひんやりとしたその手触りに心臓が跳ねる。ソーダ味の、アイスキャンディー。
「なんかクジで当たったから。電車乗るから溶けるし。帰って食べな」
思いっきり子供扱いされてる気分になり、余計に落ち込んだ。「どうも……」と一応お礼を言ったら、なんだかニヤニヤしながらこっちを見ている。
「お前、意外とアロハシャツ似合うね」
「……そうですか……」
「俺の番号ならメモしてきたから、そんな顔しなくていいよ」
「えっ」
心臓がまた跳ねた。
「電話していいよ。店も、仕事ケッコー入ったから、また行くよ」
「えっ、ほん、ほんとっ、ですか?」
「うん。でも番号間違ってたらすまんね。急いでたから」
「えっ、ちょっと、」
「ホント、急いでるんだ。じゃあな」
番号、ちゃんと確認しようとその手を捕まえようとしたら、まさに猫のような身のこなしでするりと俺の手をすり抜け、リオンさんは走って道路を渡って行ってしまった。黒い耳と黒い尻尾が、相変わらず俺を魅了するようにパタパタと動くのを名残惜しい気持ちで見送る。
リオンさんの後ろ姿が見えなくなると、俺はとぼとぼとマンションへ戻った。守衛さんの前を身を縮めて通り過ぎ、エレベーターを無事に乗り切って部屋へ帰る。
真っ直ぐリビングへ向かうと、果たしてテーブルの上にメモはあった。もらったアイスの袋を開けて、その冷たい棒を口に突っ込みながら読む。
——0△ー26◯ー△95 料金決まったら教えて。パンツと歯ブラシ上乗せしていいよ
「お金のこと〜?」
思わず声が出てしまった。すぐに「間違ってたらすまんね」の声が甦り、俺は急いでアイスを丸呑みにすると、タブレットを叩いて番号を打ち込んだ。
数回のコールの後、『はい』とほんの少し掠れた男の声がする。リオンさんの声。俺は反射的に泣きそうになってしまう。
「あ、リ、リオンさんっ? 俺、三怜です。メモ見て……」
『ああ、もう決まったの? いくら?』
「お金はいいですっ……そ、それより、」
『よくないね。店行くまでは決めといて。そん時払うから』
「ほ、ほんとに来てくれるんですか? いつ来てくれるんですか? いつ会えるんですか?」
電話の向こうから、雑踏と駅のアナウンスの声が聞こえる。リオンさん、どこの駅まで行くんだろう。どこに住んでるんだろう。
『そんなのわかんない。お前の店高いんだもん。金持ちじゃねえっつったろ』
「店じゃなくてもいいです、俺、俺、会いに行きます」
『心配しなくてもちゃんと払うよ』
「そうじゃなくて! お金、いらないです。ていうか俺が払いますから、そしたら住所教えてくれますか?」
『……ちょっと意味がわかんない。電車来たからもう切るよ、またね』
ちょっと待って! と叫んだ時には、もう電話は切れていた。
アイスの棒をガジガジと噛みながら、俺は今日から毎日この番号に電話をかけ続けるのだろうと思いながら、液晶に浮かぶ数字を眺め続けた。
end
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