君のことよく知らないけど

1.

 メロンソーダみたいな緑色のあぶくの中。透けるようなスカイブルーの鱗をきらめかせ、オスの人魚が気怠げに漂っている。上を見上げると、水面に顔をつけるようにして、メスの人魚が何事かを呼びかけているのがチラリと見えた。マンダリンオレンジの毛先を水面に遊ばせながら、彼女は無邪気な瞳でオスを見る。オスの人魚は水槽のガラス越しに店内をぼうっと見ながら、口を動かしているので何か返事をしているのだろう。
 この店に来るのは2ヶ月ぶりだった。高級店で、俺は金持ち連中の中では底辺なので、2ヶ月ぶりでもまあ、快挙だ。
 ネオンピンクの発光石で作られた、宝石のようなシャンデリアの真下の席に案内される。白い革張りのソファに腰掛けると、3徹明けの体が悲鳴を上げた。高い金を払って何も楽しまずに熟睡するのはごめんだ。オーダー用の端末を置いて退席しようとするスタッフを呼び止め、誰でもいいから一人連れて来るように頼む。誰かと話していないと眠りこけそうだった。
 1分もしないうちに、さっきのスタッフが一人の男を連れて来た。ものすごく身長の高い男だ。ピンクの照明に照らされた白に近い金髪が、ふわふわと顔にかかっている。その肌や髪の艶から、アンドロイドかと思ったが、隣に座ってよく見ると、濡れたような瞳や唇は人間と見分けがつかない。
「キミ、人間?」
 開口一番質問すると、「はい」と存外気分を害してもいなそうな態度で彼は答えた。顔に似合わぬ低い声だった。年齢不詳。美しい。これほどデカくなければ女と見間違えそうな顔立ちだ。
「年いくつ? どっか改造してんの?」
 普段ならこんな無礼な話しかけ方はしないが、ここは店で、彼は商品、俺は客だった。
「34です。改造はしてませんが、CSを一度やってます」
 CSというのはコールドスリープの略称だ。CS中の年月も含めての年齢なのだろう。どう見てもせいぜい二十歳そこらにしか見えない。
「じゃあ俺より年上だね」
「そうですか。もっと若い者の方がよければ、代わりますが……」
 無表情な男だが、目が優しかった。親切な人間の匂い。
 彼が気に入ったので、首を振った。
「ありがとうございます。何か召し上がりますか?」
「ああ、そうだな……」
 この店にはメニューというものがなかった。何を頼んでもいい。「何かおすすめある? 腹減ってないから、酒だけでもいいんだけど」
「僕が作ってもいいですか? カクテルなら、得意です」
「ここで作ってくれんの?」
「はい」
「じゃ、頼むよ」
 彼が端末を操作すると、スタッフがサービングカートに色とりどりのボトルやシェイカー、グラスなんかを山積みにして運んできた。彼は俺の隣に座ったまま、すべるような手つきで酒を作り始める。思いのほか関節の太い男らしい手をしていた。この手を見れば、アンドロイドと間違えることはないだろう。
「名前は? なんて呼んだらいい?」
「ミレイです。ミレイ・スガワラ」
「日本人?」
「はい。戸籍上は」
「ふーん。じゃ、漢字ってやつ、ある? どう書くの?」
「ありますね。ええと……」
 彼はシェイカーを置いて、もう一度端末を手にとった。テキストエディタを開いて、手書きモードにすると、白いモニタの上に白い指を置いて、『菅原 三怜』と書いた。顔に似合わぬミミズののたくった様な文字で、俺は思わずニヤケ顔になった。
「上手だね」
 と言うと、ピカピカした頬を桜色に染めて「漢字は苦手で……すいません」と下を向く。
「店で使ってる名前がこれ? ずいぶんカタい名前だね」
「いえ、本名です」
 ほんとか〜? と思いながら、グラスを受け取る。指と指が触れ合った瞬間、「お客さんの名前も聞いていいですか?」と目を見て言われた。ブルーグレイの虹彩にピンクの照明が差し込んで、悪趣味な夢の背景の様になった。
「俺は……」少し迷ったが、本名を名乗ることにした。「リオン。リオン・ノッテ」
「リオン? ライオンですか。貴方にぴったりのお名前ですね、Mr.ノッテ」
「リオンでいいよ」
 この名前は嫌いだった。キャットレイスでレオンやらリオンなんて単純にも程がある。かと言って、Mr.ノッテなんてオヤジくさいのも勘弁だ。
「リオンさん。お酒はお口に合いましたか?」
「ああ。美味いよ。独学? 教わってるの? 店で?」
「いえ、ここに来る前はバーテンダーをしてたので……その店で教わりました」
「へえ。なんで辞めたの」
 俺を見つめ続けていたガラス玉の様な瞳が一瞬、揺れた。「言いたくないならいいよ」
「いえ……。ちょっとお客さんとトラブルがあって」
「クビ?」
「いえ、自分から辞めました。店に迷惑かけたくなくて……」
 なんだか急に、普通の若い男の子の様な口調になった。何年CSしたんだか知らないが、実年齢よりは中身が幼いのかもしれない。
 この顔だから、女関係かなと思いながら酒をあおる。おかわりをすすめられて、頷いた。
「君も飲んだら? 自分で作ってもいいし、注文してもいいよ」
「あ、僕はお酒、弱いので……」
 すすめられたのが嬉しかったのか、にこにこしながらそう言うのがかわいらしくて、俺はムラムラといたずら心が湧いて来た。
「全然飲めないの?」
「いえ、そんなこともないですけど……」
「嫌い?」
「いえ、嫌いではないです。すぐ酔っ払っちゃうだけで」
 かわいこぶっていやがるのか。それとも天然なのか。どっちでもいいや、と俺はニヤニヤした。
「嫌じゃないなら、何か飲みなよ。一杯でもいいよ」
「そうですか? ……じゃあ、自分で作ろうかな」
 俺の分を手渡してくれた後、ちょっと考える様なそぶりをしつつ、酒を選び始める。
「どれがアルコール?」
「これとこれですね。こっちはちょっと、強いかな」
「強いの飲んでよ。だめ?」
「え、と……」
 困った様な声を出すが、頬が赤い。
「お店で酔ったら怒られちゃう?」
 赤い顔を覗き込むと、肩がくっついた。意外と筋肉質な二の腕が、白いワイシャツを通してほのかに体温を伝えてくる。
「あ、どうかな……酔ったことないから……」
「俺がたくさん払えば文句言われないかね」
「どうでしょう……」
 戸惑う様に瞬きを繰り返す睫毛が、シャンデリアの灯りを受けて白い肌に濃く影を落とす。こういう女っぽいキレイな男はあんまり趣味じゃないんだが、この子はちょっと可愛いなと思った。この子ったって、年上なんだけど。
「ひと口飲んで、ヤバかったらやめたら。そしたらノンアル作ればいいじゃない」
「そう、ですね……じゃあちょっと、作ってみます」
 彫刻の様に整った唇を噛みしめながら、三怜はアルコールの瓶を引き寄せた。触れたり離れたりしていた肩は、俺が動かなくても触れる回数が増えていき、そのうち触れたままになった。いつの間にか3徹の眠気はすっかり飛び去り、代わりにぼんやりとした性欲が下半身にどんよりと停滞し始めていた。


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