君に歌っている

7.

 俺の渾身の「一番右の女」に対して、みーは、
「右って、もうみんな動いてるからわかんないじゃん」
 と、ヘラヘラ笑っておしまいにしやがった。喉をそらしてビールを飲み干すと、「シャワー」と呟いて廊下へ消えた。俺は震える指でビール缶を掴み、ただの苦い水になった中身を胃へ流し込んだ。みーが戻ってくるまで、ドクドク脈打つ自分の鼓動を聞きながら、ただ流れていくテレビ画面を見ていた。

 みーとすれ違いでシャワーを浴びリビングに戻ると、みーはもう隣の和室の布団の上で正体不明になっていた。
 布団と言っても、マットレスにシーツを掛けた、ベッドとも布団とも言い難い寝床だ。掛け布団はなくタオルケット一枚が、みーの腰に巻き付いているだけだ。ソファの方に掛け布団が放り出されているところを見ると、俺はそっちで寝ろってことなんだろう。
 俺はそっと和室に入り、みーを見下ろしてみた。
 枕が明後日の方向へ飛び出していて、みーはシーツに直接頭を投げ出して昏々と眠っている。急回転したり急停止したりを繰り返していた俺の脳味噌も、少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。
 身を屈めて枕に手を伸ばし、「使ってないなら借りる」と一応断った瞬間、みーがバチっと三白眼を見開いた。
「えっ……」
 驚いて思わず声を漏らす。みーの薄い瞳がぎょろりと俺を捉えた。
「なに、」
 瞬きしながら見返すと、シーツに投げ出されたみーの細い腕が持ち上がった。その手が、俺の手首を掴む。
 いつもの俺なら、普段の俺なら、踏ん張れただろう。だが、いつもの俺じゃないし、普段の俺でもなかった。
 だってみーの手だったし、みーの部屋だったし、ここは東京だし、何より夜だった。風呂上がりだった。二人とも。狭くても、リビングと続いてても、寝室だった。
 俺は、踏ん張れなかった。無様に、みーの腹に倒れ込んだ。声にならない声が俺の喉の奥から鳴り、みーからは濁った悲鳴が鳴った。
「何、なん、何すんだよ、」
 どもりまくりながら、慌ててみーから離れようとマットレスに腕をつく。みーは咳き込みながら俺に抱きついてきた。
 今度は俺が悲鳴をあげそうになった。
「一緒に寝よ」
 さっきまでバキッと開いていたみーの目は再び眠そうに垂れていた。俺の目はバキバキに見開いて、どこを見ているのか、何が映っているのかわからないくらい泳いだ。
「は? 何? 布団、置いてあっただろッ」
 俺はとにかく隣のリビングの方へ顔を向けて叫んだ。叫んだつもりだったが蚊の鳴くような声が出た。
「暑いよ布団」
 みーは眠そうな声で、答えにならない返事をしながら、へっぴり腰の俺にしがみついてくる。暑いなら抱きついてくるなよ!
 俺は命を賭してもチンコ周りだけにはみーの体のどこも触れないよう、全神経を研ぎ澄ませながら距離を取ろうとしたが、みーの細長く温かい両腕が、蛇のように俺の腹や、肩や、腰にまとわりついてくるのを引き剥がすことは困難を極めた。
「一緒に寝ない!」
 体が言うことを聞かないので、せめて口に出して拒絶すると、さっきよりはもう少しマシな声量が出た。みーは相変わらず眠そうな表情だが、俺の声に顔を上げた。
「なんで?」
「なんで……何でも。狭い。暑い。嫌だ」
 言っても良い思いつく理由をどんどん言った。本当は勃起に気づかれたくないしそもそも勃起という現象が起こって欲しくないのが理由だがそんなこと言いたくないし言える訳もないしこんなことを思わないといけないのも嫌だ。
 せっかく久しぶりにみーに会えて、みーの部屋に泊まれて、近くに居られるのに、そしてそれを体は喜んでいるのに気持ちは暗くなる一方だ。こんなことは望んでない。隣に座ったり、隣の部屋で寝るのはいい。嬉しい。気分は浮つくが、リラックスしていられる。俺の知っている、いつもの自分でいられる。
 だが、一人用のマットレスで一緒に寝るのは許容範囲外だ。無理だ。出来ない。
 みーを好きでいることには慣れた。その自分を認めることも出来るようになった。でもこれ以上は無理だ。こんなことになるなんて、来なければよかった。いや。そんなことが無理なのはわかってる。来なければよかったなんて、嘘だ。何回やり直しても、俺は来るだろう。俺の脳はまたグルグルと歪な回転の速度を上げていく。
 みーはサラサラの頭を俺の二の腕に擦り付けながら呟いた。
「俺、最近カノジョと別れたんだよ」
 思考の回転は急停止した。さっきまで真っ暗だった視界が今度は白く飛んでいく。
「結構好きだったんだけど、振られちゃって。結構、辛くて。夜とか、特に」
 みーは色々呟き出したが俺は『結構好きだった』の衝撃にやられて身体中の力が抜け、勃起の心配も吹き飛び、みーがしなだれかかるまま、シーツにへたり込んだ。
 みーは俺に女の話をほとんどしてこなかった。彼女やセフレがいるんだろうなと思うことはあったが、俺が女の話に乗らなかったり、自分のことを聞かれるとはっきり嫌な顔をしたりする場面を長年見続けた結果、気を遣ってくれてたんだと思う。それに、みー本人も、下ネタは話しても好きとか嫌いとか、恋愛の話なんてしてるのを見た記憶がほとんど無い。俺は、俺がみーを好きなように、みーが誰かを好きになる可能性はないと思っていたから、だから大丈夫で居られたのに。
『結構好きだったんだけど』
 結構好き? 
 ありえねえ!
 逆上する自分と、そんな自分を暗い目で直視している自分と、今、身動きも取れず声も出せなくなった現実の俺の3人が、みーの腕の中、仲良く為す術なく座り込んでいた。

 おおよそ5分後、みーは俺の肩にもたれかかったまま寝息を立て始めた。俺は初めの衝撃が薄れ始めるのと共にまた体が喜び始める気配を感じ、そっとみーをシーツの上に寝かせた。みーは高校生ぐらいの頃からほとんど体型が変わっていない。学生みたいに、薄い。
 すぐに立ち上がってソファへ向かおうと思ったが、なぜか足が向かなかった。というか、腰が上がらなかった。しばらくそのままみーの寝姿を見下ろし、疲れがピークに達したところでズルズルと這ってマットレスから降りた。畳の上に横たわり、手の甲だけがシーツに触れたまま目を閉じた。みーの寝息と、窓の外から時折聞こえる車の音。東京ではどんな時間でもどこかで誰かが起きていることが物理的にわかる。
 俺と、あの運転手は起きてるんだな、なんてことを何度か思っているうちに、寝たんだか寝てないんだかわからないまま朝が来る。


次へ
戻る